ども!
ライフコーチのけんいちです!
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僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ139人目は、徳川15代目将軍の「徳川慶喜」です!
徳川慶喜は誰もがご存知 江戸幕府最後の将軍です。
「徳川家康の再来」とまで言われるほど聡明であった人物。それなのになぜ徳川幕府を終わらせなければならなかったのか?
また彼の行ったことはどんなことがあるのか。
徳川慶喜の生涯をざっくりポイントのみ触れてわかりやすく解説していきます。
そしてそこから現代を生きる僕たちにもタメになる教訓をご紹介していきますね。
14代目将軍の家茂については以下の記事でまとめています。
徳川家茂ってどんな人?彼から学べる教訓【厳しさと優しさを兼ね備える】 - まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ (kkenichi.com)
彼の生涯や実績を知ると、「英断の秘訣」が学べます。
(約5分で読めます)
徳川慶喜とはどんな人?
2回も将軍跡取り候補になる
徳川慶喜は、水戸藩の徳川斉昭の7番目の子供として生まれます。父の斉昭は、非常に教育熱心で、水戸で開いた弘文館という塾に通わせ勉強をさせます。
こうした熱心な教育もあったおかげで、青年時代は聡明な人物とした有名になりました。
そんなこともあり、12代目の将軍の家慶は慶喜のことを有望視し次期将軍候補として「一橋家」の跡取りにしました。「一橋家」というのは御三家と言われ、徳川将軍の跡取り候補の家柄です(直系男子が生まれなかった時御三家から抜擢されます)。
名前を見てもわかると思いますが、幼名は違っていた中、12代の家慶が「慶」の一文字を授け、「一橋慶喜」と名乗ることになりました。それだけ期待されていたのです。
しかし、やはり直系の男子であるべきとのことで13代将軍には家慶の息子の家定が就任。
そして家定には息子がいなかったので14代目の将軍として慶喜は2回目の将軍跡取り候補となります。当時、家茂という人物にも白羽の矢が立ち、ふたりは跡取り候補として争います。実際に争っていたのは当の本人ではなく、バックにつく大名たち。
当時の「大老」という将軍に次ぐナンバーツーの役職にいた井伊直弼が、「徳川家茂」を推薦したことで、わずか13歳で家茂が将軍となりました。
こうして徳川慶喜は2度にわたり将軍になる機会を逃しましたが家茂が亡くなると、慶喜が15代目の将軍に就任します。
手腕を発揮!
徳川慶喜は、家茂の時代から政治手腕を発揮していました。
1862年には将軍後見役という役職に就任し、家茂を補佐。
京都で朝廷を護衛する京都守護職を設置したり、参勤交代を緩和したり文久の改革という改革を推し進めます。
また、慶喜は朝廷と幕府が協力する公武合体を進めており、その調整役も行っていました。
倒幕の動きをしていた長州藩を征伐する「長州征伐」にも同行し全線で刀を持って戦っていた人物でした。
しかし、家茂がその長州征伐中に亡くなると将軍に任命されたのです。
最初は将軍になることを拒否していたと言います。
諸説ありますが、もともと将軍に就くことへのこだわりはなかったと言われているのです。
僕も、前線で戦っていた姿を知り、リーダーというよりもずっとプレイヤーとして先陣切って動き続けたかったのではないかなと勝手に想像してました。
ただ、天皇から正式に依頼があると15代目の将軍となったのです。
時代を変えた大政奉還と王政復古の大号令
当時は外国が開国を要求してきたこともあり、頼りない幕府を倒して自分たちが外国を打ち払うんだという機運が高まり、薩摩藩や長州藩などを中心に倒幕をしようとする動きが活発になってきました。
徳川慶喜は将軍就任後も朝廷と協力しながらも幕府存続の術を探り、開国することを模索していました。
しかし、ここで転換期が訪れます。
当時の孝明天皇が崩御したのです。
孝明天皇は、徳川慶喜と考え方が近く、幕府と協力して政治をやっていこうと思っていました。
しかし、その孝明天皇が崩御されると天皇に仕える公家の立場だった岩倉具視が幼い明治天皇を擁立し倒幕を図ろうとします。
危険を察知した徳川慶喜は「大政奉還」を実施。
これは「天皇に政権をお返しします」という約束のこと。もともと鎌倉時代から幕府という制度が始まり武士が政治を行なってきました。
形式上ではトップは天皇で、政権を担うのが幕府という形でした。「大政奉還」とは、その政権を完全に天皇にお返ししますということ。
これは当時、世間を驚愕させ、幕臣は猛反発。
鎌倉時代から700年続いた武家社会に終わりを告げ、平安時代以前の天皇中心の政治に戻すことになったからです。
こんな大胆な決断をできたのも慶喜の手腕だったと言われています。
大政奉還は実際に抑止力となり、倒幕をしようとしていた薩摩藩や長州藩は、流石に天皇には楯突くことができないので動きを封じられます。
しかも、徳川慶喜は大政奉還したのちも政治の中心にいることは変わりなかったので、これも「倒幕を封じながらも政権を握る」という慶喜の思惑通りだったと言われています。
しかしここでクーデターが起きます。
岩倉具視が徳川慶喜のいないところで、明治天皇のもと「王政復古の大号令」を発令。これは徳川幕府の完全廃止と、徳川慶喜の役職廃止家の領地も返還し、完全に力を失わせるものでした。
江戸幕府の最後
徳川慶喜は、事実上権力を失いました。それでも、慶喜は反旗のときを窺っていましたが、旧幕府軍が、新政府軍の西郷隆盛の挑発に乗ってしまい、戦を仕掛けてしまいます。これを機に「旧幕府軍に戦争を仕掛けられた」「天皇に楯突いた」という理由で内戦が始まります。
これが戊辰戦争です。
そして戊辰戦争で、徳川慶喜は部下を置いて逃げ去り、トップがいなくなった軍は意気消沈。
逃げた理由は朝敵になりたくなかったからだと言われていますが詳しくは不明。いずれにせよ旧幕府軍は敗北することになります。
後処理も勝海舟に丸投げで、勝海舟は徳川家のお城である江戸城を無血開城して新政府軍に分けわたし、事実上、江戸幕府は終焉を迎えました。
この最後の対応から「腰抜けだ」と批判されることも多いですが、将軍として在任していたときの対応は僕は英断が多かったと思います。
英断の秘訣
僕が徳川慶喜の生涯から学んだのは「英断をするためには目先の利益にとらわれない」こと。
将軍に推薦されたとき、当の本人はさほど乗り気ではなかったようです。将軍になった方が自分の思い通りに国を動かせるので権力に飢えた人は飛びつきたい役職だと思いますが、慶喜はそうではなかった。
理由は定かではないですが、実務でバリバリやっていた方が自分の性に合っていたのか、現代で言うとマネジャーよりもプレイヤーを選択していました。
目先の権力ではなく自分のやりたいことを貫いていたんですね。
また、大政奉還した際もかなりの責任と緊張感があったハズですが、「幕府が倒されるくらいなら権力を朝廷に返す」という決断をしました。
こうした英断ができたのも、目先の利益ではなく、もっと視野を広くして国全体の行く末や国民の命を守るためを考えたからだと思います。
江戸幕府は大きな混乱もなく260年以上、徳川家の統治で繁栄してきました。
最後の慶喜も、大政奉還することで戦争を避け、結果的に多くの命を救いました。
慶喜の英断の秘訣は、鳥の目で見た俯瞰した立場であり、目先の利益ではなく先々まで見据えていたこと。見習っていきたいですね。
徳川慶喜から学べる教訓
徳川慶喜から学べる教訓は「英断の秘訣は、鳥の目にアリ」ということ。
特にリーダーになる人は、組織全体のメリットはなんなのか?をよく見据えてジャッジしましょう。
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最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。