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ライフコーチのけんいちです!
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僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ138人目は、徳川14代目将軍の「徳川家茂」です!
徳川家茂は将軍になりますが、21歳で若くして亡くなってしまいます。そのこともあってか、あまり目立たず、最後の将軍の徳川慶喜の方が有名ですよね。
しかし、「徳川将軍のなかでも家茂が1番好き!」という人もいてファンも多い人物。
どんなところに彼の魅力があるのでしょうか。
徳川家茂の短くも濃ゆい生涯をざっくりポイントのみ触れてわかりやすく解説していきます。
そしてそこから現代を生きる僕たちにもタメになる教訓をご紹介していきますね。
13代目将軍の家定については以下の記事でまとめています。
徳川家定ってどんな人?彼から学べる教訓【自分の役割を全うする】 - まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ (kkenichi.com)
彼の生涯や実績を知ると、「厳しさと優しさを兼ね備える」ことの重要性が学べます。
(約5分で読めます)
徳川家茂とはどんな人?
13歳で将軍に
徳川家茂は、紀州藩の徳川斉順という人物の息子で、徳川の苗字ですが、将軍直系じゃなかったため、元々は跡取りではありませんでした。
しかし、13代将軍家定は息子がいなかったので14代目の将軍として家茂に白羽の矢が立ちました。
しかし、家茂以外にも、のちの15代将軍の慶喜を14代目に推す人たちもいてバチバチの後継者争いを繰り広げます。
当時、「大老」という将軍に次ぐナンバーツーの役職にいた井伊直弼が、「徳川家茂」を推薦したことで、わずか13歳で家茂が将軍となりました。
日本が分裂するとき
まだ、13歳という年齢だったため実質政治を行なっていたのは大老の井伊直弼でした。
家茂が将軍になったのは激動の時代。
将軍に就任する5年前の1853年には浦賀にペリーが来航し、開国を要請。
翌年1854年には、再びペリーが来航し、江戸幕府は日米和親条約を締結します。
徳川家茂が将軍になった年には、井伊直弼が天皇の許可を得ないまま「日米修好通商条約」を結んで国交を結ぶことをアメリカと約束してしまいます。
当時天皇の許可「勅許」を得ないまま決めることなど言語道断。
当時の日本では政治を行うのは幕府ですが、天皇が国のトップです。天皇は日本の象徴であり政治を行わないという制度は戦後に出来たものなので、当時はまだ天皇が国で1番偉いとされていました。
井伊直弼は、これで大批判をくらい、1860年の桜田門外の変で殺害されます。
開国をしようとしていた徳川幕府と、外国は打ち払おうとしていた朝廷との間に亀裂が入っていきます。
のちに明治維新の要となる薩摩藩や土佐藩、長州藩など力のある藩も開国か鎖国かで意見が分かれて分裂していくのもこの頃だったのです。
ペリーが来航したことをキッカケに、開国すべきか攘夷すべきかで日本が分かれていくのです。
公武合体
幕府は開国を希望してましたが天皇の力無しには動けないので公武合体を進めます。
公武合体とは、天皇と幕府がひとつになること。
その一環として当時の孝明天皇の妹の和宮を家茂に嫁がせます。天皇家の血筋のものが武士の家に嫁ぐのは異例です。(近年では眞子さまが小室圭さんに嫁いで話題になりましたが近しい衝撃があったのではないでしょうか)
天皇は外国を打ち払う攘夷派なので、開国なんかせずに外国を打ち払えという要望を幕府に突きつけます。
幕府は開国はしたいが、自分の力では難しいから天皇の力を借りるも、天皇からは開国するなと言われて悩みまくります。
幕府は天皇との約束も守りきれずに弱体化し、長州や薩摩などの力を持った藩が各々で薩英戦争や下関戦争をして海外と戦います。
しかし、幕府の思った通り、海外の最新鋭の武器や艦隊に歯が立たずにこれらの藩は負けてしまいます。
幕府の言うことを聞かずに薩摩藩や長州藩は行動してるところを見ると、すでに日本は分裂しています。
特に長州藩に対しては倒幕の意思が強いと言うことで1864年と1866年に2回「長州征伐」で軍を差し向けるのです。
国内で戦争が起きたんですね。
2回目の長州征伐の最中に徳川家茂は病気で亡くなってしまいます。まだ弱冠21歳でした。
家茂は息子がいなかったので、田安家という御三卿のひとつの家から徳川家達(いえさと)を時期将軍にするよう遺言を残しました。
それを聞いた奥さんの和宮は、家達はまだ幼かったのでその前に慶喜を将軍にして、そのあとに家達を跡取りにしようと考えました。
結果、徳川慶喜が15代となりましたが、もし江戸幕府が滅んでいなかったら家達という人物が16代目の将軍となっていたのです。
厳しさと優しさを兼ね備える
僕が徳川家茂の生涯から学んだことは「厳しさと優しさを兼ね備える」ことが大切だということです。
残された家茂のエピソードが彼を人気としている所以です。いくつか紹介します。
家茂はとても気遣いができる人だったそうです。
家臣たちが稽古に励んでいたとき。誤って家臣の1人が、よろけて家茂にのしかかるように倒れてしまいます。
慌てて土下座して謝ったところ、家茂は「大事ない」と許してくれたそうです。しかしまだ幼い家茂の顔には涙が浮かんでいて、本当は痛かったけど騒いだら家臣が罰せられると思い堪えていたのです。幼いながらも気遣いができてたんですね。
もうひとつ素敵なエピソードを。
家臣のうちのひとりで70歳を過ぎた老年ながらも家持の習字の先生をしていた人物がいました。
習字の練習中にいきなり家茂は立ち上がり先生に水をかけて、「続きは明日にしよう」と出て行ってしまったそうです。
周りにいた家臣たちは何事だと慌てますが、当の習字の先生は、泣いています。
理由聞くと、老年のため誤って失禁してしまったそうで、将軍の前での無礼は厳罰の対象だったため、家茂は水をこぼしてカモフラージュしたくれたのです。
その優しさに先生は泣いていたということです。
また、政略結婚で夫婦となった和宮との関係も良かったそうで、一般的には将軍は正室という奥さん以外に側室を迎え多くの女性と関係を持つことが普通でしたが(跡取りに男の子が産まれないといけないので)、家茂は和宮一筋だったそうです。
幕末の志士である勝海舟も、家茂は若くして立派な将軍と称え、家茂が亡くなるときには「徳川幕府は終わった…」と嘆いたそうです。
そう思わせるのも優しさや気遣いだけでなく将軍としての立派な姿勢があったからではないでしょうか。
家茂には、将軍として厳しさも兼ね備えたエピソードもあります。
公武合体とはいえ、天皇が幕府の人事にまで介入し、家臣に処罰を与えるような出来事があり、そのとき家茂は「そんなことするなら将軍を辞める」と辞意を表明します。
びっくりして慌てた孝明天皇は辞意を取り下げ、自分たちの行動を改めることにしたそうです。
天皇が相手と言えど、ここまで毅然とした態度を取れるのもリーダーの器ですね。
家茂のエピソードを聞けば聞くほど惜しい人を早くに亡くしたんだなぁと感じましたね。
徳川家茂から学べる教訓
徳川家茂から学べる教訓は「厳しさと優しさを兼ね備えるべき」ということ。
特にリーダーになる人は、厳しさと優しさを兼ね備えた人物であるべきだと感じました。
部下や後輩に気遣いができる人はリーダーとして頼られる人物になるでしょう。リーダーたるもの「この人についていきたい!」と思わせることが重要です。
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ではまた。
ざす。