ども!
ライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
35人目は江戸末期に「蘭学者・医者」として活躍した「高野長英」です!
彼は、幕府を批判し、獄中に入れられるも顔を変えてまで(!)脱獄して自分の信念を貫いた人物です。
高野長英って何をした人?
高野長英から学べる教訓は?
これらのことをわかりやすく簡単な表現で書きました(^^♪
(約5分で読めます)
高野長英って何した人?
高野長英は、江戸時代末期に活躍した医者であり蘭学者でした。
シーボルトの門下生として非常に優秀だった高野長英は、蘭学者として活躍しますが、幕府の海外を打ち払う攘夷行為を批判し、投獄されてしまいます(蛮社の獄)
そして、非業の死を遂げるまでの生涯をざっくり紹介します。
義父は杉田玄白の弟子
高野長英は、1804年に岩手県奥州市水沢にて武士の家に生まれました。
お父さんは、高野長英が9歳の時に亡くなってしまい、叔父に引き取られます。
その叔父(義父)は、「解体新書」で知られる医者の杉田玄白に弟子入りしていたそうです。
幼い頃から蘭学、医学に触れる機会があったんですね。
シーボルトの鳴滝塾の門下生
高野長英は、16歳のころ、江戸に勉強しに行き、さらに同じ歳で叔父の反対を押し切り長崎へ行きました。
長崎では、ドイツ人医師のシーボルトが鳴滝塾という学塾を主催しており、医学を教えていました。その塾の門下生となったのです。
シーボルトとは?
ドイツ人の医師で、最新の西洋医学を日本に持ち込んだ。当時、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図などを持ち出そうとしたことが発覚したシーボルト事件という出来事もあった。
鳴滝塾では、高野長英は優秀だったようで、塾のトップである塾頭を務めるまでにいたりました。
しかし、シーボルトが日本地図などを国外へ持ち出そうとしたシーボルト事件が起きて、関わっていた役人などが幕府に捕まりました。
高野長英は、なんとか逃げ切ったのです。
その後、江戸で活動します。
幕府批判で投獄&脱獄
1837年に、浦賀に来ていたモリソン号というアメリカの商船を「異国船打払令」をもとに幕府は砲撃しました。
これに対して、高野長英は自分の本で激しく批判。これが幕府にバレてしまい投獄されます。
これが「蛮社の獄」という事件です。
しかし、高野長英は脱獄します。
火事が起きて、そのスキに逃げたのです。
しかも、逃げた後、再度捕まらないように、なんと硝酸で顔を焼いて逃亡していたのです。
そして名前も変えて江戸で医学を教えていました。
そうして得た逃亡生活でしたが、6年たったある日、町奉行に正体を見破られて再逮捕されてしまいます。
捕まって連行されてる最中に、自害をしてその生涯を終えるのです。
やりたいことを諦めない覚悟
高野長英は幕府を批判し、捕まっても諦めずに脱獄までして、自分の専門である医学に没頭していました。
「このまま死んでたまるか!」
という気概さえ感じられると僕は思いました。
幕府に対して言いたいことはキッチリ言う。
それで自分の環境が悪くなってもやりたいことを諦めずに追いかける。
投獄されてもその現実を受け入れることはせずに、逃げ出したのです。それが良い悪いは別にして。
自分に降りかかった出来事を「運命だ」と受け入れるか、「現実を変えてやろう」と動くか?
「お前はどっちだ?」
と高野長英に言われているような気がしました笑
自分もやりたいことを諦めずに追いかけたいと改めて決心しました。
高野長英から学べる教訓
高野長英から学べる教訓は「やりたいことを諦めない覚悟」です。
自分がどんな状況に陥ってもやりたいことを諦めないこと。
それには相当な覚悟が必要だと思います。
顔を焼く覚悟など僕にはありませんが(笑)、その執念のおかげで、また医学を教えることが出来るようになったのです。
現代に当てはめて、今の会社でやりたいことができずに満足いっていないのなら、愚痴を言うだけではなく、逃げることもアリ。
脱獄するわけじゃあるまいし(笑)、会社から逃げるくらい、なんてことない。
それで自分のやりたいことが実現できるのなら最高ですね。
高野長英からは「やりたいことを諦めない覚悟」、そして「逃げてもいいんだよ」ということを教わった気がしました。
彼についてもっと深く知りたい方は以下の本がオススメです!
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。