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日本史から学べる教訓 vol.23 松平定信【リーダーがやってはいけないこと】


Hatena

ども!

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

歴史は繰り返すと言われます。

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。

今回は江戸時代の超真面目でスーパーエリートの「松平定信」です!

 

『寛政の改革』で農業中心の施策により弱い身分の人の救済を果たしました。

しかし、その後彼が失脚してしまった理由からは「リーダーとしてはやってはいけないこと」が学べます。

 

松平定信はどんな人だったのか?! 歴史を楽しく学べて現代に活かせることをわかりやすく平坦な表現で書きました(^^♪

 

 

 

 

松平定信ってどんな人?

松平定信

松平定信(画像はhttps://chitonitose.com/lessons/jh/jh_lessons94.html参照)

 

生まれも能力もピカイチ

松平定信は江戸中期の1759年に、『御三卿』と呼ばれる家柄のひとつ「田安家」に生まれます。

 

『御三卿』・・・将軍に息子が出来ずに跡取りに困った際、「この家から養子をとり将軍にしよう!」と決められている家柄のことです。要は選ばれし家柄ということ。

 

松平定信は、その家の人なので、将軍候補であるエリート血筋だったのです。

しかも、江戸8代将軍『徳川吉宗』の孫。

 

そして、頭もよく武術にも長けており、生まれも能力もエリートだったのです。

 

よく比較されるのが、「田沼意次」ですね。

田沼政治が終わって台頭するのが松平定信です。

 

✅「田沼意次」についてはコチラの記事でもご紹介。

www.kkenichi.com

 

 

わずか15歳のときにすでに田沼意次の政治を批判していました。

 

 

真面目でお堅い松平定信は、「株仲間」など商人中心の田沼意次の改革が気に食わなかった。

 

「商人中心で独占権も与えたりしているから、わいろも横行しているんだ!あんな政治だめだ!」

と堂々と批判していたのです。

 

このときすでに今の福島県にあたる白川藩に養子として入っていました。

幼いころから『出来る子』だったんですね。

 

 

『寛政の改革』で立て直し

エリートは28歳という若さでさらに老中首座になります。

田沼意次の記事でも書きましたが老中というのは、4,5人しかなれないエリート。その中でもトップが『老中首座』です。

 

 

これは将軍の次に位の高い役職で、わずか28歳で老中首座になる松平定信からは、その能力の高さが伺えます。

 

そして、田沼意次失脚後は『寛政の改革』を行います。

 

主にやったことは次のことです。

 

農業中心の政策

商人中心だった田沼意次の政策とはうって変わって農業中心の改革へと移行します。

 

まず、わいろの温床だと判断した田沼意次の『株仲間』は解散させ、独占を禁止し、自由に商売させるようにします。

 

そして『囲い米』という飢饉に備えて米を蓄えるように指示します。

 

✅ちなみに・・・

松平定信は、白川藩のときに『天明の大飢饉』という餓死者数十万人にのぼる近世一番の飢饉が起きましたが、米を蓄えたり、寄付を募ったりしており、白河藩でひとりの餓死者も出さないという偉業を成し遂げています。

 

また、農民が江戸から地方の地元に帰るときに給付金なども与えてサポートする『旧里帰農令』というものも発令しました。

 

 

弱者の救済

『棄捐令』という借金帳消し令を発令。

借金に困っていた武士を救います。

 

また、『人足寄場(にんそくよせば)』という今でいうハローワークのような制度も作りました。

職を失った人に仕事を与える場所です。

 

 

このように弱者を救う政策から、経済は立て直しますが、その反面一般民衆へは『質素倹約』を推し進めていたので反発を買うようになります。

 

 

超真面目な性格!?

松平定信はとても真面目な性格でお堅い人物という印象があります。 

 

ここで面白いエピソードを。

女性と性行為をするのも「子孫を残すためである」と言い、決して快楽のためには行わなかったそうです。

寝床を共にした女性へも「嫁ぐための心得」を説いていたそうで、一緒に寝ていても「いささか欲情は起きず」と思っていたと書物に書いてあります。

 

 

「いやほんとかよ!!!(笑)」

 

 

真実は神のみぞ知る。。。笑

 

 

また、卑俗な芸文と判断したものは禁止にするような娯楽への制約も設けたり、お堅い性格が見える政策を進めます。

文化に影響するところで一番大きなものとしては『寛政異学の禁』と言う政策があります。

 

これは彼が信仰していた朱子学以外の学問を禁じた法律です。

 

朱子学とは、中国から渡ってきた学問で、簡単に言うと『人間は本来、善の心を持っている(性善説)が、外部の影響から悪いことをしてしまう』というのをベースにした倫理観を説く学問です。哲学っぽいですね。

 

✅寛政異学の禁は、こちらの方の記事がとても詳しく書かれていてわかりやすいです!

【寛政異学の禁とは】わかりやすく解説!!なぜ行った?目的や背景・朱子学や蘭学について | 日本史事典.com

 

 

朱子学以外禁止!!というのもちょっとやりすぎですね。

 

だんだんと市民や幕府内からも反発が出てきてしまいます・・・

 

 

 

松平定信はやりすぎ?!リーダーがやってはいけないこと

 

嘆く

 

 

松平定信はエリートでしたが、自分の考えを推し進めすぎて失脚してしまったのではないかと僕は思います。

 

「やりすぎ感」が否めません。

 

 

失脚の決定打は、『尊号一件』という事件でした。

この事件は天皇が自分の父親に称号を与えようとしたところ、それを定信が拒否したことで勃発した事件です。

拒否した理由は、当時の天皇は天皇家の血筋ではなく養子で天皇になった人なので「天皇になったこともない父親に称号を与えるのはダメだ」ということからでした。

とても全うな気もしますが、当時の11代目将軍の徳川家斉も自分の父親に称号を与えたいと思っていたので定信のこの行動には憤慨。

 

これを機に失脚してしまいます。

権力に潰された感じですね。

 

 

僕が注目したのは、この事件ではなく市民からの反発というのも失脚の理由であったことです。

 

倹約に次ぐ倹約、朱子学以外の学問の学びを禁じるといった「行き過ぎた政策」が反発招いたんではないでしょうか。

 

 

リーダーになるもの、リーダーシップは確かに大事ですが、下についてきてくれる人に自分の考えを押し通すのはよくありません。

 

コンセンサスを取って進めることが必要ではないでしょうか。

 

 

松平定信から学べる教訓

勉強

松平定信から学べる教訓は「自分の考えを強引に押し通さないこと」です。

 

 

能力にも長け、リーダーシップもあって実績も残した松平定信でしたが、民衆からの反発も大きくありました。

 

 

自分の考えを強引に押し通すのではなくコンセンサスを取りながら行動していかないといけないですね!

 

松平定信に興味を持った方は下記のような本もあります(^^♪

 

 

日本史をトータルで学びたい方は、こちらがオススメ!

この人の本はとても分かりやすく、歴史が流れでまるわかりです!!

世界史バージョンもありますので、興味のある方はぜひ(^^♪

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

ではまた。

ざす。