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日本史から学べる教訓 vol.19 服部半蔵【勝ち抜くための情報取集の必要性】


Hatena

ども!

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

歴史は繰り返すと言われます。

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。今回は忍者として有名な「服部半蔵」です!

 

実は、服部半蔵は忍者ではなくれっきとした戦国武将。

徳川家康の家臣としても有名な彼からは「勝ち抜くための情報収集の必要性」が学べます。

 

服部半蔵はどんな人だったのか?! 歴史を楽しく学べて現代に活かせることを簡潔に書きました(^^♪

 

 

 

(約4分で読めます)

 

服部半蔵ってどんな人?

服部半蔵

 

服部半蔵と言う名前は、服部家が代々受け継ぐ名前なんです。

 

なので、服部半蔵は何人もいます。

 

一番有名なのが、徳川家康の家臣として名をはせた2代目服部半蔵です。(本名服部正成)

 

1542年生まれで、徳川家康のひとつ年上になります。

 

今回はこの2代目服部半蔵について書いていきます!

 

 

武術に長けた戦国武将

服部半蔵は忍者のイメージが強いですが(忍者ハットリくんとか)、武術に長けた戦国武将です。

 

1570年、28歳だった服部半蔵は、織田信長VS朝倉義景・浅井長政連合軍との戦いである「姉川の戦い」では、一番最初に敵を倒す「一番槍」という名誉ある称号を手にしました。

 

その2年後の1572年には、徳川家康VS武田信玄の「三方ヶ原の戦い」では、家康軍は負けてしまいましたが、その中でも「一番槍」を上げることができたのです。

 

このように、服部半蔵は非常に武力に長けた武将だったんです。

 

 

『鬼半蔵』というあだ名もありました。

鬼

 

こわっ!!

 

 

忍者のイメージが強い理由

なぜ、服部半蔵が忍者のイメージが強いのかというと、初代服部半蔵は実際には忍者だったからです。

 

忍者と言うか、戦の度に様々な武将にやとわれ、情報収集などをしている今でいうスパイのような活動をしていました。

 

しかし、コロコロ主君が変わるようなスパイという身分に嫌気がさして、初代のときに忍者活動は辞めてしまったようです。

 

また、武術に長け、メキメキ成果を上げていった2代目服部半蔵は、その功績として伊賀衆(忍者)を束ねる棟梁という立場を与えられたのです。

 

✅お父さんが忍者だった

✅忍者を束ねる立場だった

 

 上記2点が理由で、2代目服部半蔵は「忍者」というイメージが強いのですが、本当は武術(特に槍)に長けた猛将だったのです!

 

 

涙ながらに「主君のご子息は斬れない」

服部半蔵は、勇猛な武将だったと言われていますが、人間味あふれるエピソードもあります。

 

徳川家康の息子が織田信長に「敵と通じている」と指摘され、斬るように命じられました。

 

家康も逆らうことはできないので、なくなく実行しますが介錯を信用していた服部半蔵に任せたそうです。

 

半蔵は「主君のご子息を斬るわけにはいきません。お断り致します・・・!」

 

と涙ながらに介錯を断ったそうです。

 

服部半蔵からすれば家康の命令は絶対ではありますが、それでも大切な人に手をかけることはできないという服部半蔵の人間味ある性格が伺えますね。

 

 

その後、この家康の息子を供養するため、四谷に西念寺というお寺を半蔵が建てました。

服部半蔵もそこで眠っています。

 

 

ちなみに、『半蔵門』という地名は服部半蔵から来ています。

現在の半蔵門の近くに屋敷があったことが由来です。

 

 

勝ち抜くための情報収集の必要性

情報

服部半蔵は「情報収集力」にも長けていて、それが役に立った出来事があります。

 

徳川家康の九死に一生を得る体験にもなった

『伊賀越え』という出来事です。

 

 

徳川家康、服部半蔵含めた30人前後の少人数で出かけていた際、織田信長が自決した『本能寺の変』がおきます。

 

このとき、家康、半蔵一行は大阪の堺にいました。

 

徳川家康の本拠地三河(静岡県)に帰還するため、三重県にあたる伊賀の国を越えていかなければいけませんでした。

 

たった30人でここを通過するのは非常に危険でしたが、伊賀の忍者を束ねていた服部半蔵だからこそ顔が利き、伊賀・甲賀の土豪(その土地の豪族)と交渉し、道中、護衛についてもらうことを可能にしました。

 

服部半蔵がいなかったら、徳川家康はこの道中で討ち死にしていたかもしれません。

 

服部半蔵のように、幅広く顔が利いていたり、情報網を拡大することは、生き残るためにとても必要なことなのです。

 

 

現代社会でも、思わぬところで思わぬ人に助けられることがあります。

 

僕は付き合う人は少人数でもよいとは思っていますが、幅広く顔が知れていることもメリットではあります。

 

 

 

僕が「こういうことしたいんだー」と発言したら、「この人と話が合うと思うから紹介するよ!」と仲間が言ってくれて、普段接点のない人と繋がれたり。

 

 

顔が広ければ広いほど、収集できる情報の量も多くなり、自分のピンチのときに助けになるような人と出会える可能性が高まります。 

 

 

服部半蔵は生き抜くための情報収集力でしたが、現代社会でもビジネスで勝ち抜くために、チャンスを勝ち取るために情報収集には長けていることは大きなメリットになります!

 

 

服部半蔵から学べる教訓

教訓,勉強

服部半蔵から学べる教訓は「情報収集力が勝ち抜くために必要である」ということです。

 

 

現代社会で服部半蔵のように命まで狙われることはありませんが、伊賀越えのエピソードを知って、「自分のピンチのときに助けてくれる人はどれくらいいるだろうか」と考えるキッカケになりました。

 

 

自分に有利になるような情報を手に入れることが勝ち抜くためには必須の条件です。

 

そのためにも普段からより多くの人と繋がりより多くの情報を収集できるよう心掛け良うと思いました!

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

ではまた。

ざす。