ども!
ライフコーチのけんいちです!
『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。
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このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!
僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ107人目は、戦国時代の猛将「前田利家」です!
戦国時代の武将で、織田信長、豊臣秀吉など名だたる大名に仕えた名将。
加賀百万石と呼ばれる栄華を築いたことでも知られています。
かなり勇猛果敢な武将だったようで槍の名手でもありました。
そんな彼は自力以外にも仲間に守られてきていたところもあります。
彼の生涯を知ると「仲間の大切さ」がわかります。
(約5分で読めます)
前田利家とはどんな人?
織田信長の親友
前田利家は、1539年に尾張国(現在の名古屋市)に生まれます。
同じ尾張国には織田信長がいますが、前田利家は信長の5歳年下です。
「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」というあだ名がついていた信長同様、前田利家も180cmの巨体で暴れん坊だったようです。
ふたりは仲も良かったのです。
前田利家は6mにもなる大きな槍を振り回すほどの勇猛な武将で、織田信長に仕えることになります。
ほぼ同い年の羽柴秀吉(豊臣秀吉)も同じく織田信長に仕えており、今で言う同期のような存在でした。
織田信長の家臣をクビ!
織田信長のもとで活躍した利家でしたが、あるとき織田信長の部下である拾阿弥(じゅうあみ)という人物を斬り殺してしまいました。
これは、利家の妻がもっていた髪飾り(それも父の形見)を拾阿弥が隠したから。
拾阿弥も悪いですが、それで斬り殺してしまった前田利家もやりすぎ…
織田信長は怒り、死刑になるかと思われましたが、柴田勝家が「死罪だけは免除してやってほしい」と信長に直談判。
柴田勝家のことを前田利家はオヤジと呼んで慕っていました。
柴田勝家がフォローしてくれなかったら命はなかったでしょう。
功績を挙げて復帰
浪人となってしまった前田利家ですが、強さは相変わらず。
なんとかして汚名返上しようと、織田信長と今川義元の戦いであった「桶狭間の戦い」に呼ばれてないのに参戦。そして3名の首を討ち取ります。
その翌年の「森部の戦い」という戦でも2名の首を打ち取り、そのうちの1人が「足立六兵衛」という人物。この足立六兵衛は、「素手で相手の首を取る」怪力の猛将のようでした。
前田利家はどれだけ強いんだ・・・
信長の死と柴田勝家との対立
1582年に「本能寺の変」が起きて、織田信長は自害。
そのわずか11日後に仇討ちで、豊臣秀吉が明智光秀を討伐。
織田信長の後継者として天下人を狙う豊臣秀吉と、同じく信長の家臣であった柴田勝家は対立。
「賤ヶ岳の戦い」へと発展します。
このとき、前田利家は板挟みでした。
なぜかというと、豊臣秀吉とは織田信長に仕えていたときから家族ぐるみの付き合いでしたが、柴田勝家もオヤジと慕っていたくらいの恩義のある人物。
どちらにつけばいいのか苦渋の選択だったのです。
結局、柴田軍として布陣しましたが、戦わずして逃げており、これをキッカケに柴田軍は総崩れでこの戦は豊臣秀吉の勝利となります。
加賀百万石の大名に
賤ヶ岳の戦いでの功績で前田利家は豊臣秀吉に重宝されます。
その後も「小牧・長久手の戦い」や「小田原征伐」など、秀吉の天下統一を多くアシストし功績を挙げ確固たる地位を築きます。
そして、現在の石川県あたりである加賀・越前・能登を制定。
加賀百万石とよく言われますが、「石」というのは現在で言うお金の単位で、数百億円から数千億円にまでのぼると言われています。
歴史に名を連ねる大名・武将となったのです。
その後は体調も悪化してきて隠居生活を送ろうとしてましたが、豊臣秀吉からは五大老という役職を与えられます。
秀吉亡き後、息子の秀頼のサポートをしてほしいという秀吉の願いを聞き入れ、五大老として活躍していきます。
五大老とは、豊臣政権の政務にあたる5人の大名のことで、前田利家、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の5人を指します。
しかし、天下を狙っていた徳川家康が秀吉の決まり事を破るなど裏切りを見せ始めます。
それに対して利家は反発して、この両家でひと悶着起きたり、騒ぎになったりしたそうです。
しかし利家は健康状態がさらに悪化して寝たきりになります。
そこに徳川家康が見舞いに来たところ、布団の下に小刀を隠していたというエピソードがあります。
真偽は定かではありませんが、何か下手なこと言ったら斬るつもりだったのでしょうか。 その後すぐに60歳という年齢で亡くなりますが、関ヶ原の戦いの前年でした。
もし、ここで徳川家康が、前田利家に討たれていたら歴史は大きく変わったでしょう。
歴史に「たられば」はありませんが、なんだかゾクゾクしますね…
仲間を大切にしよう
織田信長、豊臣秀吉に付き、徳川家康とは対立してきた経歴を持つ前田利家。歴史の中心にいた人物でした。
前田利家の名言で「人間は不遇になった時、はじめて友情のなんたるかを知るものだ」という言葉があります。
織田信長の寵愛していた部下の捨阿弥を斬り殺してしまったとき、信じていた家臣たちが前田利家のもとを離れていったそうです。
こうした経験から人は辛い時にこそ友情の大切さを知るものだと感じたのでしょう。
また、命を助けてもらった柴田勝家にも恩義があります。人から助けてもらい、生きてきた。
仲間の大切さが身にしみます。
前田利家から学べる教訓
前田利家から学べる教訓は「仲間を大切にしよう」ということです。
ありきたりな言葉かもしれませんが、仲間がいることは当たり前ではありません。
今一緒に仕事している仲間も、夢を語り合う仲間も、あなたが大切にしないとピンチの時には助けてくれないかもしれません。
日頃の周りへの態度や言動を今一度見直してみたいと感じました。仲間を大切に。
彼について漫画で読める本があるので興味のあるかたはぜひ(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。