ども!
ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
今回は「聖徳太子」です!
聖徳太子についてざっくりとわかやすく解説し、
その中から現代でも学びになる教訓をご紹介します!
(約5分で読めます)
聖徳太子ってどんな人?
聖徳太子は、飛鳥時代に活躍した人で知らない人はいない日本史では必ず学ぶ人ですね。
皇族であり、政治家でした。
聖徳太子は574年に生まれ、622年で亡くなっています。
本名は厩戸王(うまやとおう)。
厩=馬小屋のそばで生まれたからという理由だそうです。
便所で生まれたら、厠戸王(かわやとおう)とかになってたんですかね(笑)
絶対嫌だな。。
『聖徳太子』という名前は、後世でつけられた名前です。
『聖』も『徳』も神聖で高貴な意味合いの漢字ですよね。
『崇高なめっちゃ徳の高い人』といったような意味ですかね。
聖徳太子がしたことをざっくりご紹介します!
①日本で仏教の礎を築いた
聖徳太子は、日本で仏教の礎を築きました。
当時、『豪族』という身分の人たちが政治を牛耳っていました。
天皇制の政治だったんですが、あまり機能していなかったのです。
有力な豪族であった蘇我氏は仏教を信仰していました。
対立する豪族であった物部氏は神道を信仰していました。
蘇我氏は皇族と血が繋がっていたので、蘇我氏と血縁関係にあった聖徳太子も仏教を信仰しておりました。
そして、蘇我氏VS物部氏の戦いで蘇我氏が勝利すると、その記念に『四天王寺』という仏教のお寺を建立しました。(現在の大阪府天王区にあります)
他にも、日本で一番最初の木造建築である『法隆寺』も象徴的な聖徳太子の建立したお寺ですね。
このように、聖徳太子は仏教の礎を築いた立役者なのです。
ただ、蘇我氏が仏教を信仰している理由と、聖徳太子が仏教を信仰している理由はちょっと違うと言われています。
当時蘇我氏の周りには朝鮮半島から来た人たちがたくさんいて、その人たちが仏教を心の拠り所としていたり、金ぴかの仏像など今までなかったような新しいものがたくさんあったりして、「仏教で政治をどうこうしよう!」というような気概ではなく「新しいものを取り入れよう」という気持ちだったんではないかと思います。
しかし、聖徳太子は、豪族の好き勝手やっている政治をなんとかしたい!と思い、仏教が大切にする『和』をもって平等な政治を目指そうとしていたのです。
それが次に紹介する憲法制定などにもつながります。
②冠位十二階の制定
603年に、『冠位十二階』という制度が制定されます。
朝廷に仕える役人に能力に応じて12階級の位を与える制度でした。
今まででは、蘇我氏だったら蘇我氏の一族が世襲していたりしたのですが、一族だけではなく、能力で役職を決めようという平等性を目指した制度でした。
③十七条の憲法の制定
十七条の憲法は日本で初めての文章としてまとめられた法律だと言われています。
有名なフレーズで「和を以て貴しとなす」というのが第1条で記されています。
法律というよりも、冠位十二階などで役職に就いた官人の心得のようなものです。
聖徳太子は仏教の教えである『和』を大切にしていたので、それが最大限反映された憲法ですね。
『身分を越えてみんなで議論しよう』
『嘘はついてはいけない』
というような内容が記されており、まさに『平等』な政治を目指すための憲法なのです。
このように、聖徳太子は『天皇を中心とする平等な政治に戻したい。そして、人々の心の拠り所になる仏教を広めたい』という思いで、邁進していました。
聖徳太子の死後、奈良時代には、仏教は国をあげて信仰すべきものとして進化していきます。
交渉相手とは対等に渡り合う
聖徳太子の功績で、先ほど紹介していないことで『遣隋使』の派遣があります。
小野妹子とか聞いたことありますよね。笑
当時の中国は『隋』という国でした。
そして、当時のアジアの情勢としては中国がトップ。
その周りの朝鮮半島や日本は中国に準ずるような形でした。
中国に皇帝がいて、諸外国は何かするたびに、中国の皇帝に許可をもらうような感じでした。
日本でまだ使用している『元号』も当時元号を作った中国に「使っていいですか~?」と聞いて許可をもらってから使用しているんです!
元号の起源については別記事でまとめてますので、もし宜しければ(^^♪
このように絶対的地位を築いていた中国に対して、遣隋使の小野妹子に持たせた聖徳太子が書いた手紙になんて書いてあったと思いますか?笑
有名なフレーズなので、ご存知の方も多いと思いますが、
“日出づる国の天子、書を日没する処の天子に致す”
です。
これを見た隋の皇帝は大激怒したそうです。
原因は、日が出る日本と日が沈む中国という中国を卑下する表現がされていたこと。
また、当時の皇帝は中国にしかいません。
日本の天子から中国の天子に手紙を処すという表現が中国と日本は対等という意味が含まれ、それも怒りの原因となりました。
日本は中国に貢物を送っていたような属国でした。
対等な表現をするということは独立国として認めてもらおうという聖徳太子の意図があったのです。
でも、僕はこの対等な位置で対話をしようとしていることはとても大事だと思いました。
遣隋使の目的は進んでいる中国の文化を取り入れるため。
それなのに、中国を怒らせるような表現は逆効果な気もしますが、聖徳太子はそこでも「対等に」「平等に」中国とお付き合いがしたいと考えていたのです。
なので、あのような表現の手紙を書きました。
これは現代でも学べる教訓だと思っています。
商売って一見お金を払う側が上の立場のようなときがありますよね。
お客様は神様だとか、レストランで偉そうにしているお客もたまにいますよね。(僕は大嫌いです、ああいう人( ゚Д゚))
営業マンとして仕事している僕も、商品を買ってもらう取引先に対してつい下に下に出てしまうのですが、これはいけないなと感じました。
商売はお互いが必要としているもの、価値を認め合っているものを交換する事から始まっています。
聖徳太子が属国としての姿勢で中国と付き合っていたら、どうなっていたんでしょうか。
確かに進んだ文化を取り入れることはできたかもしれませんが、日本独自の発展はできなかったのではないでしょうか。
何かするたびに中国に「それはダメだ」とか言われていたでしょう。
交渉相手や取引相手とは対等にいること。
聖徳太子は、その大切さを教えてくれます。
ただ、当時、聖徳太子が強気にでていたのには、『中国は認めてくれる』という裏付けがあったと言われています。
当時、朝鮮半島を支配したかった中国は日本を味方に付けておきたかったんじゃないかということです。
朝鮮半島と日本がタッグになられては困るということですね。
聖徳太子から学べる教訓
聖徳太子から学べる教訓は、
『交渉相手とは対等に渡り合うべき』ということです。
上下関係が生まれてしまうとwin winの関係にはなれません。
お互いが成長するためには、対等な関係が大切です。
仏教を信じ、平等性を大事にしていた聖徳太子からそんなことを学ぶことができます!
自分も改めて仕事に活かしたいと思いました(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。