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日本史から学べる教訓 vol.4 豊臣秀吉 【成功は準備で全て決まる!】


Hatena

ども!

 

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

日本史の偉人から学べる教訓をご紹介します。

 

今回は日本史の三英傑のひとり豊臣秀吉です!

 

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は三英傑と呼ばれる将軍。

 

初めて日本で天下統一したのが豊臣秀吉です。

 

日本史では必ず習う、誰でも知っている人ですよね。

 

織田信長に仕え、「猿」と呼ばれ可愛がられてたのも有名な話です。

 

 

天下統一した豊臣秀吉ですが、農民出身でけっして恵まれてた境遇ではありませんでした。

 

 

そんな秀吉がなぜ天下統一出来たのか?

 

そこには豊臣秀吉の知恵と行動に秘密があったのです。

 

現代でも役に立つ教訓を共有します!

 

 

 

(約5分で読めます)

  

豊臣秀吉ってどんな人?

 

豊臣秀吉

 

 

豊臣秀吉は、1537年に今の愛知県に生まれます。

 

豊臣秀吉が生きていた戦国時代はまさに乱世の世で、日本各地に戦国武将がうごめいていました。

 

そんな荒れ狂う時代を終わらせ、天下を統一したのが豊臣秀吉。

 

 

さぞ強い武将だったのかなと思いきや、出身は農民で、身分は最下層。

 

 

戦法も『戦わずして勝つ』というのが特徴でした。

 

 

戦でも、わざと相手の逃げ道を作っておいて、相手が逃げだしたら追うことはせずにそのまま不戦勝。

楽に勝てる方法を選んでいたのです。

 

織田信長のような気性の荒い性格であれば徹底的に敵をつぶすでしょう。

 

逃げ出す相手を追いかけて徹底的につぶすことはできますが、自分の戦力にも痛手をこうむることになります。

 

 

被害を最小限に抑えて勝利する。

理想は戦わずして勝つ。

 

 

という頭脳戦が豊臣秀吉の戦い方の特徴です。

 

 

戦以外でも、農民出身の秀吉は出世するためにとにかく根回しや機転をきかせるのがうまかったのです。

 

 

豊臣秀吉は織田信長に仕えていました。

 

冬の寒い日に、織田信長は出かけようと草履をはいたら温かった。

理由を聞いたら、秀吉が信長の草履を背中に入れて温めていたと知り、信長はその忠誠心をとても評価をしたという話は有名です。

 

 

また、秀吉は信長の命令で中国地方攻略をしていました。

その際に、織田信長が明智光秀に追い詰められ自害したと秀吉は聞きます。(本能寺の変)

 

 

すると、中国地方攻略のために戦をしていた敵の毛利氏に対して、和睦交渉を求め停戦します。

 

そして、爆速で京都へ向かい明智光秀を討ち、信長の仇を撮ったのです。

 

これが有名な『中国大返し』

 

岡山~京都まで230kmをわずか10日間で移動したと言われています。

  

 

本当に織田信長の仇を討つために忠誠心だけで全速力で戻ったのか?

 

切れ者の秀吉のことなので、

『真っ先に信長の仇を討つことで、忠誠心を他の人に知らしめることができる。織田信長の跡を継ぐためにはどの家臣よりも早く敵討ちをしなきゃいけない』という戦略があったのではないかと僕は思います。

 

織田信長がいなくなった今、中国地方の制圧よりも信長の敵討ちをして人望を上げるほうが天下統一のためには大事なことだったのではないでしょうか。

 

 

秀吉はずっと前から『天下統一』を虎視眈々と狙っていたんだと思います。

 

 

 

 

天下統一の秘訣は準備にあった?!

 

スタート。準備ができている。

 

 

そして、 秀吉が天下統一するキッカケになった出来事『清州会議』があります。

 

これは織田信長の跡継ぎを決めるのと、領地配分を決める会議でした。

 

信長の長男は明智光秀との戦ですでに死んでしまっていたので、跡継ぎは次男にするか三男にするかということが焦点となっていました。

 

この三男が優秀だったようで、次男も三男も一歩も譲らずまったく話が進まなかったとのこと。

 

ここに集まった織田家の家臣は柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉、池田恒興という4名でした。

 

柴田勝家は三男を推していました。

 

自分が推している物が後継者となれば自分も実権を握れるというだけあって、柴田勝家も鼻息を荒くしていたことでしょう。

柴田勝家

 

肖像画もこんな豪傑そうな人なので「優秀な三男で決まりだろ~!」と大声を上げていたんではないでしょうか(笑)

 

 

次男VS三男の構図が一歩も引かなかった中、秀吉は機転をきかせます。

 

 

わずか3歳であった長男の息子(信長の孫)の織田秀信(三法師と呼ばれていた)を擁立したのです。

 

 

三法師を抱えて現れた秀吉の絵画も残されています。

 

三法師を抱える秀吉

(画像はWikipedia参照)

 

 

「次男でも三男でもない。長男の息子である秀信が後を継ぐのは当たり前だろう」と秀吉は堂々と現れたのです。

 

 

ここまでの間で秀吉はしっかりと根回ししていました。

 

①対立するとわかっていた後継者争い。長男の息子を擁立するため、信長の孫である秀信の面倒を見て事前に仲良くなっていた。

 

②会議に参加していた丹羽長秀と池田恒興には領土配分で希望するところを与えると約束して自分の言うことを聞くように仕向けていた。

 

③信長の後継者争いで優位に立つため、信長の弔い合戦を誰よりも早く実行した。

 

 

もう柴田勝家に勝ち目はありません。

 

弔い合戦をした秀吉の言うことは正しいと誰もが感じるようになり、会議に参加していた勝家以外の2人も秀吉は領土配分を与える約束をして手中に収めていた。

 

 

 

 

 

 

秀吉の勝ちは会議が始まる前から決まっていたのです。

 

 

 

 

この清州会議は豊臣秀吉が天下統一するポイントになった出来事なのです。

 

 

この秀吉の行動から『成功するかどうかは事前の準備ですべてが決まる』ということが学べます。

 

 

 

 

豊臣秀吉から学べる教訓

ノートとペン。勉強。

 

 

 

豊臣秀吉は自分には戦の戦闘力もなく身分も低いということがわかっていたことから、「ではどうやったら勝てるか?」についてとてもよく考えていました。

 

 

天下統一するためにはまず勢力のある者(織田信長)につくこと。

そして気に入られること。

忠誠心を示し、優秀な部下もつけること。

自分がチャンスになったときのために虎視眈々と準備をしていたこと。

 

 

清州会議ですでに実行するときには秀吉の勝ちは決まっていました。

 

 

成功するためには始まる前から勝ちを確信しているくらいでないといけないと秀吉から学べます。

 

 

僕もサラリーマンで営業をやっていますが、「営業がモノを売るときは、すでに相手のニーズを引き出した後で、買ってもらえることは決まっているくらいでないといけない」というのを教わりましたが、まさに秀吉の行動からもそういうことが学べるなぁと感じました。

 

 

 

成功するかどうかは準備で決まる。

 

 

関係する人への根回しや、事前の準備などをしっかりおこない、僕も新しいことにチャレンジする際は、確実に成功する自信に満ちた状態で臨もうと思います!

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

ではまた。

ざす。