ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
49人目は戦国武将でもかなり人気で大河ドラマにもなった「真田幸村」です!
日本史の教科書にはあまり載っていませんが、テレビやゲームなどの影響もあって、彼は真田幸村が好きな人は多いのではないでしょうか(^^♪
あの徳川家康をあと少しのところまで追いつめたほどの猛将だと言われています!
そんな彼の生涯から学べる教訓を紹介。
真田幸村って何をした人?
真田幸村から学べる教訓は?
これらのことをざっくりと5分でわかるように解説していきます^^♪
(約5分で読めます)
真田幸村ってどんな人?
幼少期は不詳
真田幸村の幼少期はあまり史実に残されておらず、不明なことが多いです。
1567年に生まれたとされる説が有力そうです。
ちなみに真田幸村の本名は「真田信繫」。
「幸村」というのは彼の死後江戸時代に書かれた小説のときに出てくる名前。
なぜかこの「幸村」の方が一般的になりました。本記事では真田幸村で統一していきます。
幼名は「弁丸」といい、真田昌幸という人物の次男として生まれました。
真田家は君主がころころ変わっていました。
真田幸村が生まれた時、真田家は武田家に仕えていた信濃の国衆(くにしゅう)でした。
※国衆・・・戦国大名ほど大きくはないが自分の領土を持っていた武将
しかし、武田家が戦に敗れると武田領内に侵攻してきた織田信長の勢力に従うことに。
織田信長の家臣である滝川一益という人物に仕えます。
そして、次は織田信長が本能寺の変で亡くなってしまうと、旧武田領にすぐさま戻ることになり転々とします。
真田幸村はこのときまだ15歳ほど。
武田家も織田家も敗れ、支配者のいなくなった旧武田領では、領土の奪い合いが起きます。
激変の真田家の運命
旧武田領は、関東の北条氏、徳川氏、甲信越の上杉氏の三つ巴での取り合いになります。(天正壬午の乱)
真田幸村の父の昌幸は、上杉氏→北条氏→徳川氏といったようにその都度優勢になった武将に従うようにしてうまーく切り抜けました。
真田家の命運がかかっていたと言っても過言ではないこのピンチを切り抜けたのです。
昌幸さん、すごい!笑
この戦は徳川と北条の和睦で決着。
そして最終的に上杉氏に従属することになった真田家は、息子の真田幸村を上杉家の本拠地である越後(新潟)に人質として送りました。
当時は、「裏切りませんよ」という意味で自分の息子を人質として送るのは普通に行われていることでした。
真田幸村の躍進
上杉家では人質と言いつつ、ひとりの武将として扱ってくれたそうです。
上杉家の人質時代にも力をつけたのでしょうか。
そして、中央では豊臣秀吉が天下統一を果たします。
そこで、父の真田昌幸は次は豊臣家に従属するようになります。
パパ、抜け目ないっ!!笑
幸村も次は豊臣家の人質となりました。
このとき豊臣側の人と結婚します。
豊臣秀吉の死後は、そのあとの天下取りで1600年に関ヶ原の戦いが勃発。
西軍石田三成vs東軍徳川家康です。
真田昌幸は、息子幸村とは石田三成側につきました。
長男の真田信幸は徳川家に婿入りしていたので、徳川軍につきます。
家族で分裂してしまう結果になりますが、いつのときでもうまく優勢な勢力についてきて生き延びてきたパパの昌幸のことなので「東と西どちらが勝っても真田家が生き残れるように政略的にわかれていた」という説もあるそうです。
真偽を確かめるすべはありませんが、面白い説ですよね!
単純に、長男の真田信幸は、徳川家に嫁いでいたので東軍についただけだと思いますが。
関ヶ原の戦いは、 ご存知の通り、徳川軍の勝利。
兵力の数で圧倒的に差もあったので当然でしょう。
当然、真田昌幸・幸村も殺されてもおかしくない状況ですが、徳川軍についている長男の信幸のおかげで命だけは助かります。(...やはりパパ昌幸は負けても命だけは取られないようにと両軍に真田家をわけていたのではないかと考えちゃいますね笑)
そうこうしているうちに、真田幸村は40歳を超えます。
当時の年齢で言うと、このまま亡くなってしまってもおかしくない年齢。
ずっと活躍してきたのは、父の真田昌幸でした。
しかし、やっと幸村の活躍の場が訪れます。
徳川家康は、残る豊臣勢を排除するため、大坂に攻め込みます。
このとき真田幸村は豊臣側について徳川軍を待ち受けました。
「大坂冬の陣」です。
圧倒的に兵力で不利な豊臣軍なので真田幸村は「大阪城に籠っていても、破られるのは時間の問題だ。野戦をしかけて油断しているスキを突くしかない」と提言しますが、当時、幸村はまだ無名だったので受け入れてもらえず。
そこで、幸村は大阪城の弱点である方角に「真田丸」という出城を築いて防戦。
これが徳川軍に痛手を負わせる結果になり、幸村もとうとう成果を上げたのです。
こうして鉄壁を誇る大阪城と、その弱点を補う「真田丸」のおかげでなんとか持ちこたえ、徳川軍とは休戦することになり「大坂冬の陣」は終わりました。
このとき、家康は幸村に寝返るように進言したそうですが、それを断っていたそうです。
そして翌年の夏には、真田幸村の運命を決める「大坂夏の陣」が勃発。
休戦することを条件に、「真田丸」を撤廃され、大阪城の堀も埋められてしまい防御力を失った大阪城。
もう徳川の大群を抑えるだけの力はなく必然的に野戦になってしまいます。
徳川15万 vs 豊臣軍5万という差。
不利な状況は変わらず、幸村は奇襲をかけて家康の首を取ることを決意。
窮鼠猫を嚙むとはこのことで、不利なだけあって、「これが最後」と士気は高まっていました。徳川軍は、若干の余裕をもってしまっていたのではないでしょうか。
真田幸村は奇襲や「徳川軍で裏切り者がでた」などと嘘の情報を流し、徳川軍を混乱させ、本陣まで追いつめることに成功。
徳川家康自身も馬に乗って逃げたと言われています。自害まで覚悟したそうです。
しかし、やはり兵力の差には勝てず。
家康を討ち取ることなく、幸村は徳川軍の武将に首を取られてしまいました。
何かをするのに遅すぎることはない!
真田幸村の一生を書きましたが、彼が活躍したのは40歳過ぎた晩年。
不利な状況ながら、作戦を立てて敵を苦しめることに成功。
その勇猛さが人気の秘訣なのではないでしょうか。
また、父親の真田昌幸も非常に優れた武将でしたね。
自分の領土を北条氏、上杉氏、徳川氏という巨大な敵が争っているところをうまく取り次いでいました。
そんな父親を見ていたので、幸村も徳川軍を苦しめることができたんでしょう。
真田幸村の生涯を調べて僕が感じたことは、「何かを始めるのに遅すぎることはない」ということです。
真田幸村は、大坂冬の陣が始まる前、大坂で豊臣側が勢力を集めるため、浪人を募集していたときに応募して集まったのですが、このとき髪も歯も抜け落ち落ち武者のような姿だったと言います。
そんな姿になっても諦めず、戦い抜いたのです。
彼の姿には、勇気をもらいますね!
真田幸村から学べる教訓
真田幸村から学べる教訓は「何か始めるのに遅すぎることはない」ということです。
江戸時代では、晩年ともいわれる40歳過ぎてからの大活躍。
彼のモチベーションから学びたいですね。
戦だったんで命がかかっているから当たり前といえば当たり前かもしれませんが、髪も歯も抜け落ちた浮浪者のような姿で現れた幸村は、「なんだ真田昌幸じゃないのか」とも言われていたそうです。
名を残した父のプレッシャーに負けることなく、活躍し徳川家康からはスカウトされるくらいまでになりました。
彼の人気の秘訣と生涯を知ることで、学べる教訓を書きました。
真田幸村のことがもっと知りたい方は以下の本がオススメ。
図解されているので、真田一族のことまでまるわかりです。
また、「何かを始めるのに遅すぎることはない」ということについて「伊能忠敬」でも書いた記事もあるので、お時間あれば読んでもらえると嬉しいです(^^♪
日本史から学べる教訓 vol.20 伊能忠敬【やりたいことを始めるのに年齢は関係ない】 - ド底辺サラリーマンの夢の叶え方
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。