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日本史から学べる教訓vol.1 徳川家康【ミスを次に活かすために必要なこと】

ども!

 

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

僕は日本史が大好きなので、新しいシリーズを始めました。笑

 

 

日本史でも名をのこす偉人は、やはり現代でもためになる生き方をしています。

 

そんな日本史から学べる教訓をさまざまな偉人のエピソードを交えながら紹介します!

 

 

記念すべき(?)第1弾は『徳川家康』です!

260年以上も続いた江戸幕府を築き上げた将軍です!!

 

(約5分で読めます)

 

徳川家康ってどんな人?

徳川家康

 

徳川家康は、1600年に関ヶ原の戦いで石田三成を破り天下を取り、1603年に江戸幕府を開いた将軍です。

戦国時代に天下統一をして終止符を打った将軍と言われています。

 

江戸幕府はその後15代将軍徳川慶喜が『天皇を中心とする政治に戻す』という意味の『大政奉還』を発表し、1868年に始まる明治時代まで続いた長い幕府でした。

 

 

徳川家康の有名なことばで「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」っていうのがありますよね。

 

これに示されるように徳川家康は忍耐強い性格でした。

 

その性格を作ったのは幼少期時代です。

 

徳川家康が生まれたのは三河国で今の愛知県。

 

家康が生まれた当時、戦国時代真っただ中で東は今川義元、西は織田信秀(信長の父)が勢力を持っており、その二大勢力に挟まれ、どちらに占領されてもおかしくないような状況でした。

 

そんな中、織田信秀が愛知に攻めてきたのです。

 

「やばい!このままでは三河国が滅んでしまう!」と焦った家康の父・松平広忠は、今川義元に助けを求めました。

 

その際、今川軍は「助けてほしければ、忠義の証として人質をよこせ」と要求。

 

そのため、息子の家康を人質として送りました。

 

 

 

ところがどっこい。

 

 

人質として家康を運んでいた今川軍の者が裏切り、お金をもらう代わりに織田勢に家康を渡してしまったのです。

 

そこで織田信秀から「息子を返してほしけりゃ国を明け渡せ」と脅されますが、家康の父は「殺したきゃ殺せ!そんな脅しで隣の国に屈するか!」と突き放します。

 

お父さんひどいですね、、笑

 

 

 

しかし、これを「国に忠義を尽くす名将だ」と織田信秀がたたえたのです。

 

その後、家康は殺されることもなく約12年人質としての生活を強いられました。

 

織田軍のなかで2年間人質となり、その後、織田軍と今川軍との人質交換で今川軍での人質生活も始まります。

 

桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ってやっと人質生活が終わったのです。

 

殺されないだけよかったですが、性格が形成される思春期真っただ中を人質として過ごしていたので、その生活もあってか家康は非常に忍耐強い性格になりました。

 

 

その後、織田信長と同盟を結んだり、豊臣秀吉が天下統一した際には恩賞として江戸の土地を任せれたり、世渡り上手な人でした。

豊臣秀吉の死後は、自分が天下統一するために豊臣軍を裏切り攻め滅ぼしたこともあので、ずる賢い性格という意味で『たぬき親父』というあだ名もありましたが。

 

 

 

 

 

徳川家康がミスをしたときにした行動

change、変える



徳川家康から学べる教訓として『ミスを次に活かす』ということが挙げられます。

 

三方ヶ原の戦いという戦でのこと。

 

武田信玄が進軍してきたときに徳川家康の浜松城を無視して通り過ぎていきました。

 

家康は忍耐強い反面、戦ではすぐにカッとなる性格だったようで、無視したことに怒り、武田信玄を攻めました。

 

「俺を無視するなんて何事だー!」と。

 

軍の数は、武田信玄は27,000人に対して徳川家康は10,000人ほどだったようです。

 

「無茶だよ、家康パイセン~泣」という家臣の忠告があったにもかかわらず「織田信長さんは桶狭間の戦いで勢力が大きな今川義元を奇襲攻撃で討ち滅ぼしたんだ!奇襲攻撃ならいける!」と攻めてしまいます。

 

 

 

 

その結果惨敗。

 

 

 

これだけ聞くと「ダサいな・・・」と思うかもしれませんが、家康はこの失敗をちゃんと活かします。

 

 

自分への戒めとして、自分のカッとなって無茶して失敗したみじめな姿をわざわざ絵師を呼び描かせました。

 

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これがその絵です。

 

これは『しかみ像』といい、その絵を眺めて自分への戒めとしたのです。

 

たしかになんだか情けない顔をしてますね。

 

 

でも自分の失敗を認め、目を背けずそこから学ぼうとする姿勢が素晴らしいと思います!

 

 

 

そしてその失敗を成功へと変えるエピソードもあるんです。

 

 

それは関ヶ原の戦い。

 

当時の石田三成の本拠地は大垣城という城でした。

 

そこでこんな噂を流したと言います。

 

 

「大垣城を素通りして佐和山城を攻めまーす」

 

 

武田信玄にされたことを石田三成にしたのです。

 

これを聞いた石田三成は怒り、籠城せずに大垣城を出て野戦となり、徳川家康に敗北しました。

 

 

自分が素通りされてカッとなったしまったミスを教訓とし、それを利用して石田三成を破ることができ、江戸幕府を開くことができたのです。

 

 

自分のミスを戒めとするだけでなく、それを利用して成功を収める。

 

 

素晴らしい武将だなと思いました(^^♪

 

 

 

徳川家康から学ぶ教訓

勉強。学び。ペンと本。

 

徳川家康から学べる教訓は『ミスをしたら自省し、必ず次に活かす』ということです。

 

 

ミスをしたら反省することは誰でもやっているかと思います。

 

例えばそのミスが他の人もやりそうなミスなら後輩や部下に防止策を提示してあげたりしましょう。

 

 

ミスをしたときに単に反省するだけではなく、他にメリットあるように動くべきなのです。

 

 

徳川家康はそんなことを教えてくれます。

 

 

また、ミスと言うことではないですが、徳川家康は「自分は平凡な人で才能も特にない。リーダーシップもないし、体も病弱で強くもない。」と考えていました。

 

 

でもそれを卑下するだけでは終わらずに「ではどうすればいい?」と考えました。

 

 

その結果、織田信長と同盟を組んだり、豊臣秀吉に仕えたり、自分を殺そうとした本多正信という者までも許して家臣にしたり、とにかく自分より優れた人を仲間にしていきました。

 

 

自分が劣っていることは認めて素直に受け入れ、自分にはないものを持っている人と仲間になる。

 

 

 

 

自分のミスや非力さを受け入れたうえで、「ではどうすればいいか?」という前向きな姿勢も徳川家康から学べる教訓ですね。

 

 

 

 

徳川家康は決して強い武将ではなかったですが、江戸幕府を開いて天下統一できた理由もこうした性格を知ると納得できます。

 

ずる賢い性格でもあったといいますが、『ミスを次に活かす』『自分の劣っている部分を認め、素直に助けを求める』ということは現代人でも教訓になる素晴らしい性格ではないでしょうか。

 

 

 

僕も見習っていきたいと思います!!

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

ではまた。

ざす。