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ライフコーチのけんいちです!
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歴史は繰り返す
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ128人目は、徳川2代目将軍の「徳川秀忠」です!
徳川家康と3代目の徳川家光に挟まれて歴史上は影の薄い人と思われがちですが、江戸幕府が200年以上の安泰を維持できたのも彼のおかげなのです。
偉大な父のプレッシャーもあったでしょうが、しっかり江戸幕府の礎を築きました。
彼の生涯や主張を知ると、「組織の二代目がやるべきこと」が学べます。創業者の息子や、組織の立ち上げのリーダーの跡を継いだ人なんかは秀忠から学ぶことが多いかと思います。
(約5分で読めます)
徳川秀忠とはどんな人?
三男だったが家督を相続
1579年に静岡県の浜松城にて生まれました。
父は言わずと知れた名君の徳川家康。家康の三男として誕生。
三男なので家督相続とは無縁と思われましたが、秀忠が生まれた年に長男の徳川信康が、謀反の疑いで同盟相手の織田信長に切腹を命じられ亡くなってしまいます。
次男の秀康は、家康の正室ではない女性との子供だったこともあり、豊臣秀吉の養子になるため、三男の秀忠が後を継ぐことになります。
このように秀忠が2代目将軍になれたのは運もあったのですね。
関ヶ原の戦いに大遅刻?!
豊臣秀吉が亡くなると、側近だった「五大老」のひとりである徳川家康と「五奉行」のひとりの石田三成が対立し始めます。
これまでは国の運営や政治は「五大老」が中心となり、豊臣政権の運営は「五奉行」が中心となり、豊臣秀吉の天下を維持していました。
しかし、主君が亡くなった後、徳川家康は「力ある者が天下を取るべき」という考えでギラギラしていました。
石田三成も「このままだと家康が何かしでかすぞ」と目を光らせます。
案の定、家康は秀吉の遺言を破るような行動(政略結婚など)をどんどんやり始め、暴走。
そんなこんなで徳川家康と対立した石田三成との争いが「関ヶ原の戦い」に発展します。
天下分け目の大決戦とも言われる「関ヶ原の戦い」はその名の通り、豊臣秀吉の後、天下を取る人物を決める戦いだったのです。
もちろん息子の徳川秀忠も参戦。しかし、超重要なこの戦いに秀忠は遅刻してしまいます…
秀忠は、敵軍であった真田昌幸と幸村親子に進軍中に遭遇。
相手方の智略もあり、時間稼ぎされて行く手を阻まれてしまいます。
「戻ってきなさい」という家康からの手紙で、上洛命令が入りますが、戻った頃には「関ヶ原の戦い」は終わっていたのです。
関ヶ原の戦いは、半日で終わった決戦でしたからね。
次期将軍の座がゆらぐ?!
ただ、秀忠の大遅刻に父親の家康は大激怒。お詫びのために家康に接見したいと秀忠が言っても断られてしまいます。
「後継ぎは変えた方がいいのか」という相談も重臣にしていたそうです。
ただ、失態はこの一度だけだったし、家康は秀忠に将軍の位を譲ることは変えませんでした。家康の名言で、「怒りは敵と思え」というのがあります。
その名言通り、湧いてきた怒りを抑えて、冷静に家督相続の判断を下したのかもしれません。
朝廷からも「征夷大将軍」に任命され、1605年に江戸幕府の2代目将軍になりました。
父・家康とのタッグ体制
秀忠が将軍となりしたが、家康は「大御所」という役職で政治を裏で担っていました。
江戸幕府というと平和な時代のイメージがありますが、まだ発足当初は豊臣秀吉の息子たちが謀反するリスクも残っていました。
天下をとっていた豊臣秀吉の代わりに政治を行なっているのが徳川家康というのは豊臣家は面白くないですからね。
そんな不安定さやリスクがあったからまだ家康も秀忠に任せきれなかったのでしょう。
こうして親子のタッグ体制が整います。
そしてついに豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛けました。
それが「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」。
この戦いで徳川軍は勝利し豊臣家は滅亡。
徳川家の安泰が約束されたその翌年の1616年に家康が亡くなりました。
なんというタイミングでしょう。もし、豊臣家を滅ぼす前に家康が亡くなってしまっていたら秀忠だけで勝利できたかはわかりませんよね。
こうして、徳川秀忠がリーダーになった江戸幕府が始まります。
徳川幕府の確固たる基礎を固める
徳川秀忠は、今後続く江戸幕府の基礎を築きます。
ここでの秀忠はかなり冷徹でした。
「勝手に城を作ってはいけない」など、いくつかの決まりを設けた武家諸法度を発令。
徳川家康に忠義を尽くしてきた大名たちにさえもこのルールを守らせました。
減俸やらの処罰を受けた大名は数知れず。しかし、このおかげで謀反を起こすような力をつける人は出てきませんでした。
「武家諸法度」は、8代目の吉宗のときまで約100年も続きました。
チームを統率するためには時には冷徹に対応しないといけないということを示していますね。
他にもインフラの建築工事などを費用は大名持ちで大名たちに強要しました。
これも力を削ぐためだったと言われています。
大名たちからは不平不満が大いにあったことでしょう。
ただ、このかいもあり、江戸幕府はゆらぐことなく、200年以上の繁栄をしていきました。
1623年に徳川家光に将軍の座を譲り自身も「大御所」として政治に関わります。
しかし、1632年には病気で54歳でこの世を去りました。去り際にはこんな言葉を残したと言われています。
「私は父の作った江戸幕府を守ろうとしただけで、私自身はなんの功徳も積めなかった」
父親が作り上げた幕府をなんとか守ろうとした。そのやり方は非道さもあったかもしれないけれど、有言実行できた。
二代目の跡取りとしては充分すぎる功績だったのではないでしょうか。
組織の二代目の役割とは?
僕が徳川秀忠の姿勢から学んだことは「組織の二代目の役割は、組織を守ることに徹する」ということです。
これまで徳川家康に忠誠を尽くしていた人たちにとっては冷徹とも言えるルールを定めた「武家諸法度」。
大名たちが力をつけてしまわないようにしました。でも、これくらい徹底しないとまた戦国時代の再来…なんて可能性もありましたよね。
二代目の役割としては初代が築いた土台をさらに盤石にすること。
そのためには周りに嫌われようが批判されようが組織が発展するために必要なことを遂行することが大切なのです。
初代の人柄を慕ってついてきている人もいるでしょう。その人たちからすると二代目に変わった途端、そっぽを向くことだってあります。
そのときに組織を乗っ取られ好き勝手されないようにするためには時には冷徹に、力を削ぐことも必要。
二代目の仕事としてルールや規範作りがとても大切だと徳川秀忠は教えてくれました。
徳川秀忠から学べる教訓
徳川秀忠から学べる教訓は「組織の二代目の役割は、初代が築いた土台をより盤石にする」ということ。
周りの顔色を伺いながらではいけません。
「初代は魅力的だったけど、二代目になってこの組織もダメだな」なんて思われなように、初代のビジョンを継承しつつ、そのビジョンを叶えるために何が必要かを考え抜くこと。
これが大切なんだと学びました。
最後にもう一度秀忠の同じ言葉を引用して終わります。
「私は父の作った江戸幕府を守ろうとしただけで、私自身はなんの功徳も積めなかった」
徳川秀忠についてもう少し詳しく知りたい方は以下の本がオススメ(^^♪
二代目の役割というものがしっかり学べます。
次の3代目将軍『徳川家光』について知りたい方は以下の記事にまとめています(^^♪
徳川家光とはどんな人?彼から学べる教訓【経営者の判断に不可欠な要素】 - まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ (kkenichi.com)
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最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。