ども!
ライフコーチのけんいちです!
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僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ111人目は、「山陰の麒麟児」と呼ばれた戦国時代の猛将「山中鹿介」です!
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
彼はこんな名言を残しています。
僕だったら七難八苦なんて来てほしくない!と思ってしまいますが(笑)、「どんな困難でもかかってこい!」という強さが感じられますね。
彼は自分が仕えていた主君が滅亡しても再興しようと奮闘します。
彼の生涯を知ると「諦めの悪さも必要」ということが学べます。
(約5分で読めます)
山中鹿介(幸盛)とはどんな人?
尼子氏の三傑のひとり
出自はあまり詳細が残っておらず、1545年頃に出雲国(現在の島根県)で生まれたとされています。
年代で言うと、織田信長の10個下くらいで徳川家康と同い年くらいになります。
名前は山中幸盛で通称「鹿介(しかのすけ)」とされています。
よくテレビや戦国武将が出てくるゲームでは鹿介と呼ばれることが多いので本記事でも「山中鹿介」で統一します。
彼は若い頃からとても強かったそうで、尼子(あまご)氏という出雲国の守護代に仕えていました。
一時は中国地方の大半を制圧するほどの勢力を誇っていた尼子氏。その尼子氏の三傑と呼ばれる武将のひとりだったのです。
山中鹿介は、8歳の頃から戦場に出ていてわずか13歳で敵を討ち取ったとも言われています。
16歳の頃には敵軍で豪傑と名をとどろかせていた武将を一騎打ちで打ち取り、山中鹿介という名前は山陰に知れ渡ります。
尼子家の滅亡
このとき、中国地方は毛利元就が台頭してきます。
元々、毛利家は小さな領主だったので、尼子氏に付いていましたが、家督相続などで揉めて、尼子氏を離れて独立して勢力を付けていたのです。
毛利元就と言えば、知力に長けており「稀代の謀将」と呼ばれる人物。
策略を巧みに使い、尼子氏の家臣たちを味方に付けて勢力を拡大しながら尼子氏に攻め入ります。尼子氏が本拠地とする月山富田(がっさんとだ)城を毛利氏が包囲すると、尼子氏は降伏。
主君を失った山中鹿介は浪人となります。
その後は、兵庫県にある有馬温泉で傷を癒し、諸国を巡り上杉氏、武田氏、北条氏などに兵法を学んだとされています。
北条氏と言えば関東の武将ですので、相当長旅をしていたんでしょう。
そして力と兵法を身に付けた山中鹿介は京都に戻ってました。
3度にわたる尼子氏再興チャレンジ
山中鹿介は、まだあきらめていませんでした。尼子氏の生き残りの家臣たちを集めて少しずつ勢力を戻し、もう一度、主君の本丸だった月山富田(がっさんとだ)上を毛利元就から取り返そうとします。
こうした尼子氏再興運動は3回も実施されるのです。
月山富田城を攻めた1回目。
毛利元就は、北九州を攻めていましたが出雲へ引き返します。
山中鹿介の軍も士気があり相当頑張っていたそうですが、城を取り返す前に毛利元就が戻ってきてしまい、さすがの大軍には勝てず敗退。
山中鹿介は捕らえられますが処刑されずに済み、幽閉されました。
でもここで諦めないのが彼。
幽閉先を脱出して再度毛利氏打倒と尼子氏再興を狙います。
2回目の尼子氏再興チャレンジが始まります。
毛利氏に追いやられていた山名豊国という人物とタッグを組みます。
そして、毛利氏の配下だった鳥取城を奇襲し、少ない兵で城を奪取。
そこに山名豊国を起き、拠点として自分はさらに攻め入ります。
ところが、山名豊国はなんと毛利氏に寝返ってしまい山中鹿介は裏切られます。
あの知謀に長けた毛利氏なので言葉巧みに操られてしまったんではないでしょうか。
周りは敵だらけ。
仲間にも裏切られた山中鹿介はここでも敗退。
だがしかし、まだまだ諦めません。
3度目の尼子氏再興チャレンジです。
とはいえ、このとき毛利元就はかなりの勢力を身につけて巨大化していました。
さすがに奇襲レベルでどうにかなる相手ではありません。
そこで山中鹿介は、当時メキメキと力をつけていた織田信長と面会。
織田信長も山中鹿介の気迫あふれる性格を気に入り、馬をプレゼントしていました。
山中鹿介の勇猛さを考えると織田信長が気に入るのもなんとなくわかりますよね。
そして、中国地方を担当して攻めていた明智光秀の元で山中鹿介率いる尼子軍は活躍。
明智光秀は地理に疎かったため苦戦していましたが、尼子軍のおかげで戦況は好転していきます。
山中鹿介の最期
兵庫県で打倒毛利氏のために奮闘していた豊臣秀吉。当時、織田信長の配下です。
上月城という城を奪取。兵庫県の西の方にある城で、中国地方を攻める前線の要です。
そこに山中鹿介率いる尼子軍を配置。前線なのでかなり期待されての配置でしょう。
しかし、上月城の反対側で兵庫県の東の方にある三木城という城にいた織田信長の手下の別所長治が毛利元就側に寝返ります。
京都にいる織田信長と、上月城にいた山中鹿介の間の三木城が毛利側に寝返ったことにより分断されます。
中国地方を攻めようとしていたのに背後を脅かされた状態になった織田軍。
信長は、豊臣秀吉には三木城を取り返すよう命令。山中鹿介には上月城を早く撤退するよう指示。
しかし、山中鹿介は言うことを聞かず、籠城戦に入ります。
籠城戦と言えど、助けは来ません。
70日間ほど耐えたそうですが、毛利元就の軍に降伏する形となります。生捕にされた山中鹿介ですが、護送中に暗殺されます。
この暗殺は、毛利元就の部下である小早川隆景の仕業と言われています。
3回も尼子氏を再興しようとした執念と尼子氏への忠義の心。
猛将だったので毛利氏は部下に置きたくて生捕にしたかもしれませんが、「これだけ忠義ある武士は絶対部下にはならないだろう」と考えた小早川隆景の判断だったのかもしれません。
諦めの悪さも必要
負けても何度も何度もチャレンジする。
その気概を買われて織田信長にも気に入られたのでしょう。
最後は少し頑固さもあって籠城戦を選択して敗北してしまっていますが、この諦めの悪さは見習いたいですね。
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
少数で立ち上がろうとしていたので、これから困難が待ち受けてることは容易に想像できたでしょう。
「それでもいい。どんな困難が立ちはだかってもいい。むしろかかってこい!」
そんな覚悟にも聞こえます。
これだけの信念を持って取り組んで野望に向けて立ち上がる。見習いたい姿勢です。
山中鹿介から学べる教訓
山中鹿介から学べる教訓は「諦めの悪さも必要!」ということ。
「諦めが悪いな」ってネガティブな言葉として聞こえますが、それだけこだわり持ってやっている証拠。
「しつけーよ」って言われるくらいの諦めの悪さを身につけよう!笑
諦めの悪さのおかげで、成功するまで成し遂げることができるかもしれません。
彼についてもっと知りたい方は以下の本があるのでぜひ(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。