ド底辺サラリーマンの夢の叶え方

https://webplatform.github.io/docs/html/elements/head

まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ

心が軽くなる心理学やオススメの本や映画を紹介しています。※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

竹中半兵衛とはどんな人?彼から学べる教訓【自分の軸をぶらすな!】


Hatena

ども!

ライフコーチのけんいちです!

 

『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。

このブログではライフコーチの観点から心が楽になる考え方をシェアしたり、オススメの本や映画の紹介をしたりしています。

このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!

 

 

 

僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。

 

歴史は繰り返す。

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)

シリーズ110人目は、豊臣秀吉の軍師として活躍した「竹中半兵衛」です!

 

戦国時代、織田信長からの家臣への誘いも断る肝っ玉。

彼の堂々たる自信は、学ぶべきところがあります。あの天才軍師・黒田官兵衛と並び称される名軍師です。

 

彼の生涯を知ると「自分の軸をぶらさないこと」が学べます。

 

 

 

(約5分で読めます)

 

竹中半兵衛とはどんな人?    

   竹中半兵衛

小さい頃から知力に長ける

 

竹中半兵衛は、1544年に今の岐阜県にあたる美濃国で生まれました。

 

父親は美濃国の大名、斎藤道三の家臣でした。

 

竹中半兵衛は、幼い頃から三国志の諸葛亮孔明の兵法書を読んで勉強していたそうで、知力に長けていました。

 

1558年、14歳の頃には父親と一緒に岩手氏という武将の城を攻略し、竹中家の城を建てるという武功もあげます。(菩提山城)

 

しかし、その2年後に父親は亡くなってしまいます。

 

その後は竹中半兵衛が菩提山城の城主になり、斎藤道三の孫に仕えるようになります。

 

 

織田信長軍の攻撃を防ぐ!

 

斉藤道三の孫もまだ若く、当時勢いのあった織田信長から、美濃国は狙われていました。

 

織田軍に攻められることになりますが、織田軍が向かってくるであろう道中に伏兵を忍ばせて通り過ぎたところを奇襲するという方法で竹中半兵衛は織田信長を撃退したのです。

 

幼い時から兵法を学んでいたことによる勝利です。

 

 

主君との別れと織田信長との出会い

 

竹中半兵衛は織田軍を撃退しましたが、主君の斎藤道三の孫の龍興は政治をサボるようになってきたため、主君に愛想をつかせます。

 

そこで、斎藤龍興がいる稲葉山城(今の岐阜城)に攻め入ることを決めます。

 

主君に対する裏切りですが、怠慢ばかりの龍興の政治に嫌気がさしたんでしょう。下克上です。

 

竹中半兵衛の弟が人質として稲葉山上で預けられており、「見舞いに来た」という名目で16人でお城に潜入。

 

油断していた斎藤龍興に対して一成攻撃。そして、外で控えていた仲間2,000人の兵も立て続けに攻めてきて、斎藤龍興は一気にやられました。

 

竹中半兵衛は城を乗っ取ったのです。

 

この武勇を聞いた織田信長は以前、竹中半兵衛に敗れたこともあり、美濃国の半分を渡すから稲葉山城を差し出せ、と実質家臣になるような誘いをしますが、半兵衛は断固拒否。

 

しばらくしたらそのあと普通に斎藤龍興に稲葉山城は返還したそうです。なんのためだったんでしょうか。

 

理由は諸説あり、嫌がらせを受けていたその仕返しだったとか、斎藤龍興を戒めるためだったとか。

 

ちなみに、竹中半兵衛は美男子だったようで「女のような風貌をしている」と書かれた資料も残っていて、物静かなこともあって嫌がらせを受けていたそうです。現代と変わらないっすねー、、でもその仕返しで城を攻めてくるとか怖すぎw

 

豊臣秀吉の家臣に。そして活躍

 

織田信長は竹中半兵衛を諦めきれません。

家臣であった豊臣秀吉に、再度誘うように命令。

 

何度も何度も誘いにくることに根気負けしたのか豊臣秀吉に仕えることになり、実質織田信長の部下になることにしました。

 

三国志の諸葛亮孔明が、まだ身分が低かった頃に目上の劉備に3回訪問されて誘われたことに感激した仲間になったと言われる「三顧の礼」と同じこと。

 

諸葛亮孔明の兵法を学んだことのある竹中半兵衛だからこそ感動したのか、織田信長は半兵衛が諸葛亮孔明に精通していることを知っててあえて「三顧の礼」を真似て何度も誘ったのかわかりませんが、こうして仲間になることになりました。

 

それ以降も「姉川の戦い」では織田信長と敵対していた浅井長政勢の作戦を見破ったり、信長と武田勝頼の争いである「長篠の戦い」では、相手の作戦にハマりそうになった豊臣秀吉を救う場面もあり、大事な戦で大活躍していました。

 

そして豊臣秀吉とともに中国地方を攻めていたときも、相手方を説得して戦わずして勝つという無血開城も成し遂げます。

 

戦は被害を出さないように戦わずして勝つという大切さをわかっていたのです。これは「孫子の兵法」にも出てきますね。

 

こうして将来も期待された竹中半兵衛でしたが肺の病気で36歳の若さで亡くなってしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の軸をぶらすな!

      集中



 

 

竹中半兵衛は、名軍師でした。

 

かつ、自分が正しいと思ったことは君主の命令であっても言うことを聞きませんでした。

 

豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛と並び称され、同じ「兵衛」が付くことから「二兵衛」と言われていました。

 

黒田官兵衛の息子を助けたエピソードもあります。

黒田官兵衛が裏切ったと織田信長に勘違いされて、息子を殺すように豊臣秀吉に命令しました

 

しかし、黒田官兵衛の無実を主張していた竹中半兵衛は、息子を匿ったそうです。

 

その後、黒田官兵衛の無実が証明されてことなきを得ました。当時、主君の織田信長に歯向かうことは一族もろとも抹殺を意味していました。

 

しかし、それをも恐れずに竹中半兵衛は黒田官兵衛を助けたのです。

 

彼は自分が正しいと思ったことであれば例え主君の言うことであっても反論し、自分の軸をしっかり持っていたのです。

 

 

竹中半兵衛から学べる教訓 

勉強

竹中半兵衛から学べる教訓は「自分の軸はぶらすな!」ということ。

 

自分の軸をぶらさずに、間違ってる方に関してはちゃんと反論する。

 

斎藤龍興が政治を怠けていた時は主君を追い出し城を乗っ取り、豊臣秀吉の作戦も間違ってる時はNOと言い、織田信長さえも恐れずに黒田官兵衛の無実を信じ、自分の主張を貫きました。

 

これだけ自分の軸をぶらさないでいられるのも自分に自信があるからでしょう。

 

幼い頃から兵法を学び、実践でも活躍していました。自分が学んだことをしっかり身につけてそれが役に立っていることで着々と自信をつけていったのでしょう。

 

上司に言いたいことが言えない。

家族にも我慢して自分の主張は抑える。

 

そんな人も多いかと思いますが、自分の主張をできるくらい真剣に物事に取り組み自信を身につければ大丈夫。

 

自分の軸をぶらさずに生きていきたいですね!

 

 

 

彼についてもっと知りたい方は以下の本があるのでぜひ(^^♪

小説風で読みやすい本です! 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

ではまた。

ざす。