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まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ

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毛利元就とはどんな人?彼から学べる教訓【戦わずして勝つためには?】


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ども!

ライフコーチのけんいちです!

 

『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。

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このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!

 

 

 

僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。

 

歴史は繰り返す

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)

シリーズ112人目は、智略に長け、「謀神」とも呼ばれた戦国時代の中国地方の覇者「毛利元就」です!

 

小さな領主で、幼少期には今でいうホームレスのような生活もしていた彼ですが、うまく世渡りし、力をつけて中国地方を制するまでになりました。

 

彼の生涯を知ると、「戦わずして勝つ」ことの大切さが学べます。

 

 

 

(約5分で読めます)

毛利元就とは?

     毛利元就

幼くして家族を亡くし孤児に

 

毛利元就は、応仁の乱が始まった30年後の1497年に安芸国(現在の広島県西部)に生まれます。

織田信長の40年近く前に生まれているので戦国時代では早い方の武将です。

 

父親は安芸国の領主毛利家の次男として生まれた彼ですが、4歳の頃に母親を亡くし、10歳の頃には父親はアルコール中毒で亡くなっています。

 

 

当主がいなくなったことをいいことに毛利家の家臣が裏切りを起こし、お金を横領。

そして毛利元就は追い出されてしまいます。

 

それを不憫に思った元就の父の継室であった杉大方(すぎのおおかた)という女性が、再婚もせずに元就を育ててくれたそうです。のちに元就は杉大方に関して感謝の気持ちを手紙にしています。

 

杉大方の教育の元、毛利元就は成長していきます。

 

毛利家の当主に

 

当時の中国地方は、まさに戦乱の世。

 

中国地方の南の山陽を治めていた大内氏、北の山陰を治めていた尼子氏の二大勢力がぶつかり合い、それ以外は毛利家のような小さな領主がたくさんいたような状況です。

 

山陰と山陽の地図

山陽が大内氏、山陰が尼子氏の勢力(http://geographico.blog.fc2.com/blog-entry-414.html参照)

毛利家のような小さな領国の当主たちは大内氏につくか、尼子氏につくかで、家を守っていました。

 

当時の毛利家は大内氏に従属。

そんな毛利家の当主(元就の兄)も父同様アルコール中毒で死去。嫡男で元就の甥である幸松丸(こうしょうまる)が当主になりますがまだ2歳。元就がサポートする形になり、毛利家を支えていきます。

 

のちに幸松丸(こうしょうまる)もわずか9歳で病死してしまい、元就が当主となります。

 

 

 

少数でも智略で戦に勝利

 

毛利元就といえば「謀神」と言われ、力づくよりも頭を使って奇襲などで勝利を収めていった武将。少数で不利な状況でも戦いに勝ち、史実に残る戦ではなんと220の戦に参戦し勝率は8割を収めていたようです!

 

毛利家と仲の良かった吉川氏という人物に、武田元繁という猛将が攻めて来ます。武田元繁は、中国の項羽と並び称されていたくらいの戦に強い人物。

5,000の兵力で攻めて来たところ、吉川氏は半分以下の兵力だったようですが、毛利元就が助っ人で参戦し勝利。

 

大将の武田元繁の首を討ち取りました。「西国の桶狭間」とも呼ばれる戦いになり、毛利元就の名を轟かせました。

 

 

 中国地方制圧

毛利元就は、着々と力をつけます。

 

大内氏→尼子氏→大内氏というように傘下に入る大名を転々としていました。

再度、大内氏についたときに、尼子氏の傘下の領主を打ち破ったことにより、石見(島根県)、備後(岡山県)まで勢力を広げ、広大な土地を手に入れます。

 

ただ、冒頭書いたように、まだまだ小国の領主という立場は変わりません。

これ以上に勢力を拡大していくために次の一手を打ちます。

 

自分の息子を婿に出すのです。

長男は毛利の名を継がせ、次男は、「西国の桶狭間」と呼ばれる戦いで味方についた吉川氏に養子に出し、三男は水軍で有名な小早川家に出します。

それぞれ、吉川元春、小早川隆景として有能な武将に育ちます。

 

周りを固めていった毛利元就の勢いは止まりません。

 

山陽の勢力を担っていた大内氏が家臣の陶晴賢(すえはるかた)という人物の裏切りにより、討たれてしまいます。

大内氏の形勢が崩れたところ、毛利氏もここぞとばかりに大内氏から離れ、陶晴賢を討ちに行きます。

 

これが「厳島の戦い」です。このとき、小早川水軍に養子に入った小早川隆景も大活躍し、大勝利を収めます。これも3万の兵力に対し、わずか5,000の兵で勝利を収めたのです。

 

その後も、山陰を治めていた尼子氏の領土であった月山富田(がっさんとだ)城を攻めて、勝利を収めます。

 

大内氏、尼子氏を倒した毛利元就は、盤石な体制を整え、中国地方を制圧しました。

 

 

不利な勢力でも勝利を得られたのは元就の知略でした。

「厳島の戦い」では、敵の武将の筆跡を真似て「寝返る」という嘘の手紙を出して仲間割れを起こさせたそうです。

尼子氏を倒した「月山富田城の戦い」では難攻不落の城だったので、周りを取り囲い、兵糧攻めにて降参させたそう。

 

兵力が少なかったので、被害を最小限に、極力戦わずして勝つ方法を意識していたのではないでしょうか。

「孫氏の兵法」にも「戦わずして勝つことが善だ」という教えがあります。

 

戦のなんたるかを心得ていたんですね!

 

 

 

戦わずして勝つ

ストップ

 

毛利元就の戦い方を見ていると、被害を最小限にして、勝つ戦だけしっかりと見極めている感じがしました。それが勝率8割を可能にしていたんではないでしょうか。

 

また、毛利元就は家族思いだったとも言われています。

毛利元就は手紙や書面で書き残すことが多かったそうでいろんな文書が残っております。

 

一番有名なのは3本の矢の話しです。

「1本の矢だと簡単に折れるが、3本まとめると簡単に折れることはない」

これは、3人の息子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に充てた言葉で兄弟で協力し合いなさいという意味です。

 

戦国の乱世だと兄弟・家族同士でも争いが起きることは珍しくありません。

そんななか、無駄な争いはやめて「毛利家」の繁栄のために協力することを教えたのです。

 

他にも酒を飲み過ぎるな、とか家族の健康を想う言葉であったり、「一致団結するべし」という教訓も残されています。また、家臣にも身分関係なく一声かける優しい人物だったそうです。

 

毛利元就は、戦に強い武将でしたが、戦いを推し進めたというよりは無理に戦わず必ず勝てる方法を見極めてから行動に移していたのでしょう。そして、それを具現化するのには「一致団結」するチームワークが大切だと心得ていたのです。

 

 

 

毛利元就から学べる教訓 

勉強

毛利元就から学べる教訓は「戦わずして勝つためにはチームワークが大切」ということ。

 

これはビジネス面でも、参考になります。会社としてどのライバルよりも勝りナンバーワンになることも大切ですが、たとえば価格勝負に挑んでしまったり、勝つために苦手分野で無理してしまったりすると苦しくなりますよね。

 

自社に不利な状況なのであれば「戦わない」というのもひとつの手です。

 

 

勝てる見込みがあるか、勝てても被害が最小限で自分たちにメリットがあるのかどうかをよく見極めましょう。

そしてそれを実現するためには、根回しであったり、チームワークが大切だということを学びました。

 

 

彼についてもっと知りたい方は以下の本があるのでぜひ(^^♪

 

 

 

また、今回話の出てきた毛利元就の次男の小早川隆景についても以下の記事でまとめています!

 

毛利元就に敗れましたが、尼子氏のために奔走した猛将もいます。

山中鹿介です。彼についての記事も書いてありますのでいろんな角度から歴史を知りたいかたはぜひ見ていただけると嬉しいです!

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

ではまた。

ざす。