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まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ

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大隈重信とはどんな人?彼から学べる教訓【思考の枠を超えよう】


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ども!

ライフコーチのけんいちです!

 

『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。

このブログではライフコーチの観点から心が楽になる考え方をシェアしたり、オススメの本や映画の紹介をしたりしています。

このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!

 

 

 

僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。

 

歴史は繰り返す。

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)

シリーズ95人目は、明治時代から大正時代まで長きにわたり日本の近代化に努めた政治家「大隈重信」です!

 

大隈重信は、初の政党内閣で首相を務め、鉄道の開通早稲田大学の設立なども実施し、日本の近代化に大きく貢献した人物です。

江戸時代に生まれ大正時代まで生き、なんと76歳で総理大臣に就任するなど、長きにわたって活躍されていました。

 

亡くなった時の日比谷公園での国民葬では、約30万人が参列したというからその人気ぶりがうかがえます。

 

そんな大隈重信の生涯と、彼の行動から学べる教訓をまとめていきます。

本記事を読めば「思考の枠を超えることの大切さ」が学べます。

 

 

 

 

 

(約4分で読めます)

 

大隈重信ってどんな人?

         大隈重信





幼い頃から勉強熱心

大隈重信は、1838年に佐賀県に生まれました。

わずか7歳で弘道館という佐賀藩の学校に通います。

 

大隈重信のお母さんは勉強する環境を整えるために、彼の勉強部屋の窓を高い位置にして、外を覗いて意識が散漫しないような工夫もしていたとか。

エリートの片鱗が垣間見れます。

 

しかし、弘道館での朱子学中心の閉鎖的な授業に反発。

偏った教育に疑問を抱いていました。

 

江戸時代には、幕府は朱子学を奨励していたのでどの藩校でも教えているのは当たり前でしたが、納得いかず。(朱子学は、中国から伝わったいわゆる道徳。)

 

16歳のときに、藩校の方針を変えようと改革を訴えましたが、弘道館からの退学を命じられてしまいます。

大隈重信は、弘道館の教諭でもあった枝吉神陽という人物から国学を学んでいました。

国学とは、日本の『古事記』や『万葉集』をベースとした日本の古くから伝わる精神などについての学問。

 

そして、この枝吉神陽が立ち上げた「義祭同盟」という団体に加入。同じ佐賀県の賢人の副島種臣や江藤新平らもいました。

 

 

明治維新と政治家としての活動

 

明治維新後に、政治家として活躍していきます。

新政府では、外国事務局の判事に任命され、海外の国との調整役として活躍したのです。

 

当時、キリスト教は日本では禁教で犯罪だったので隠れキリシタンの弾圧事件が起きます。

 

すると、日本に駐在している海外の国の判事たちが猛反発でブチギレ。

イギリス公使のパークスという人物ともかなりの言い合いになったそうですが、うまく折衝し交渉成立させ、この事件を解決するに至ります。

  

 

その後も、参議などの重要なポジションにつき、鉄道の開通や教育面ではのちの早稲田大学になる東京専門学校を創立。

また、1年が365日であるグレゴリオ暦を取り入れたのも大隈重信だと言われています。

 

ちなみに、明治新政府の重要なポジションにはだいたい薩摩藩か長州藩の人物が担っていました。幕府を倒幕したのは薩長が中心だったからです。

佐賀藩から重役を担い、しかも総理大臣になったのは大隈重信が初めてだったそうです。

出身や家柄ではなく能力でのし上がった方なんですね!

 

 

対立と再起

 

重役を担っていた大隈重信ですが、政府から抜ける事件が起きます。

それは、明治十四年の政変です。

 

当時、新政府は国民の決まりではある憲法を作ろうとしていましたが、のちに初代総理大臣になる伊藤博文と対立。

 

伊藤博文は、君主制であるドイツのビスマルク憲法を支持して、大隈重信は議会制のイギリスの憲法を参考にすべきと主張します。

 

結局、大隈重信が負けてしまい政府を去ることになります。

君主制とはトップがいて、トップが物事を決めるという方針で、当時の日本は強い国のリーダーが必要なのでこの君主制を取り入れました。

 

対する大隈重信は議会によって皆で物事を決めるべきと主張。

大隈重信の案は却下され政界を去っていきますが、ゆくゆくは、この議会制が取り入れられ、今日の政治も議会制で行われています。

 

 

76歳で再登板!国民的人気の政治家

 

大隈重信は、政府を追いやられた後でも、必要な人物として呼び戻されます。

 

下野したあとは立憲改進党という政党を作りました。

そして、板垣退助の自由党と合同し、憲政党を作り、初の政党内閣を組閣します。

 

この政権はわずか4カ月で解散してしまい、その後は政治ではなく早稲田大学の総長をやったり教育面で活躍。

また、全国で講演も行い国民の人気を獲得。

 

その後に、当時の政権が汚職事件を起こし、大隈重信がまた内閣総理大臣に選ばれたのです。なんとそのとき大隈重信は76歳!

76歳で国のトップとはさすがです。

その後2年間総理大臣を務め、政界を引退後は83歳で病気で亡くなりました。

 

当時、日比谷公園での国を挙げての葬儀では約30万人が参列したそうです。

人気の政治家でありました。

 

 

 

 

 

思考の枠を超えよう!

スカイダイビング



大隈重信からは「思考の枠を超えることが大切だ」ということを教えてもらいました。

 

何か結果を残す人、新しいことをやり遂げる人は、やはり常識にとらわれないんだなと。

大隈重信は、若い頃、弘道館で教えられていた朱子学にも疑問をもっていました。

「なんで偏ったひとつの学問しか教えないんだ?」と。

 

ただ当時は朱子学は江戸幕府が奨励していた学問だったのでなんの疑いもなく学んでいた人がほとんどでしょう。

しっかり自分の意志を持って、自分にとって合わないものは合わないと、大隈重信はハッキリ言えたんですね。

 

「みんながやってるから」

「年長者に言われたから」

 

という理由だけで思考停止人間になっていないか? 

大隈重信の活動を知ると、そう自戒したくなります。

 

常識や思考の枠組みは取っ払って柔軟な考え方ができるようになりたいなと思いましたね。

 

 

大隈重信から学べる教訓 

勉強

大隈重信から学べる教訓は「思考の枠を超えることが大切だ」ということです。

 

近しい言葉で「リフレーミング」というのがあります。

ある事柄を今までと違った見方で捉えることです。

 

有名な例えで言うと、

コップに半分の水が入ってるのを見て、

「半分しか水が入ってない」と思うか「半分も水が入ってる」と思うか。

 

コップ

参照:https://okamura-takuro.com/2016/07/14/koppuhanbunnomizu/

同じ事実に対してどう感じるか?です。

 

多数派だったりいわゆる常識と言われることに納得いかなかったら声をあげましょう。

自分の信念に沿って生きた方が気持ちが良い!

 

大隈重信大先生は、そんなことを教えてくれました。

 

 

彼についてもっと知りたい方は、中公新書さんの歴史の人物の本はとても詳しくてオススメ。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

ではまた。

ざす。