ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ90人目は、『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な漫画家「水木しげる」です!
漫画家として大成功を収めた水木しげるさんですが、戦時中には左手を失い、命の危険に晒される場面も非常に多く、そして漫画家としても40歳になるまで花は咲きませんでした。
そんな苦悩の日々を過ごした水木しげるさんは「しないではいられないようなことをやりなさい」「怠けなさい」と言っています。
果たしてこれはどんな意味なのでしょうか。
水木しげるさんの生涯とそこから学べる教訓をご紹介します。
(約4分で読めます)
水木しげるってどんな人?
小さい頃から物語と絵が大好き
水木しげるさんは1922年に大阪で生まれます。
本名は、武良茂(むらしげる)。
親は印刷業をしていたそうです。
父の仕事の関係上、母親と水木しげるさんは地元の鳥取県に移り住みます。
幼い頃から物語を聞くのが好きで、幼少期に家政婦として自宅にきていたおばあさんが、信心深い人で霊的なことや妖怪のお話をしていたそうです。
そんな話を聞いていたことが、水木しげるさんの妖怪漫画家としての原点となります。
また、ちょっと怖い話が、5歳くらいの頃に「死」について興味がわいたという水木しげるさんは3歳の弟を海に突き落とそうとして親に見つかり激怒されたというエピソードがあります。こわ。
鳥取県の大自然の中で過ごしていたり、友達と遊び回ったり、かなり活発でのびのびと過ごしていました。
画力もピカイチだったそうで、高等小学校(今で言う中学校)のときには描いた絵が入賞したり、個展を開いたりと才能を発揮。
しかし、それ以外の勉強の成績は低かったそう。
すぐに働きに出るも、マイペースな性格から仕事もすぐに辞めたりうまくいきませんでした。
すぐ飽きる
興味のないことはすぐ飽きる性格で、絵を描くこと以外興味がなく、再度学校に入学するも成績不振と欠席の多さから退学。
定員50名で受験者51名という低倍率の学校にも面接でセオリーからは外れた自由なことを言いまくったので落とされたと言う逸話もあります。
今で言うと就活で「弊社を選んだ理由は?」「そんなに興味はないんですが、休みが多く取れそうだからですね」と答えるようなもんですかね。笑
その後新聞配達で働きながら、絵の勉強もしていたさなか、太平洋戦争が起きます。
地獄の戦時中に出会った心優しき部族
太平洋戦争が始まると出兵することになります。
パプア・ニューギニアでの戦争に駆り出された水木しげるさんは、ラバウルという場所へ行き戦っていましたが、敵の攻撃から逃げるので精一杯。
爆撃を受けながら海に逃げて泳いだり、銃弾が肌をかすめることもあったそうです。
当時は「お国のために命捨てる」のが普通。
「お前、なんで死なずに逃げて帰ってきたの?」と上官に言われて愕然としたそうです。
生きて帰ることに怒られるって恐ろしいですよね。
そして、負傷した左手が、切断しないといけないくらい状態がひどく、片手を失うことになりました。
負傷兵としてモチベーション的にも低くなっていた矢先、ラバウルという地域のトライ族という現地の民族と出会い、水木しげるさんは息を吹き返します。
水木しげるさんに対してたくさんのおもてなしをしてくれたトライ族。
意気投合しめちゃくちゃ仲良くなったそうです。
自由に生きる彼らに魅了されていったのです。戦争が終わったあとも「ここに住んだらどうだ」と誘ってもらったそうですが、日本に帰国することに。
「また必ず会いにくる」と伝えて、のちにその約束も果たします。
漫画家としてデビュー
終戦後、色んな職を転々としながら、アパート経営もし始めました。
そのアパートが「水木荘」というので、のちに「水木しげる」とペンネームを名乗ります。
当時、漫画も書き始めますが、妖怪とか陰鬱な作風から出版社側からも敬遠されるようになってしまい、なかなかヒット作を生み出せません。
生活も貧窮してきたある日、「どうしても怪奇ものを描かせてくれ!」と出版社に懇願して「墓場の鬼太郎」という漫画を描きました。
こちらも全く売れずに打ち切りが決まってしまいましたが、一部のファンから「面白かったから続けてくれ!」という手紙が届いたそうです。
そして、鬼太郎の単行本が出版されました。
また、雑誌への出版も決まり、週刊少年マガジンからの依頼もあり「テレビくん」という漫画を連載開始。
本作品ではまんが賞も受賞しました。
これをキッカケに人気漫画家の仲間入りを果たします。すでに40歳を超えていました。
鬼太郎の読者からの熱烈な手紙がなければこのようにヒットしていなかったかもしれません。
こうしてそのあとに「ゲゲゲの鬼太郎」も生まれ、妖怪漫画の先駆けとして水木しげるさんは君臨するのです。
暇を作って怠けよう
『水木サンの幸福論』と言う本にこんな信条が載っています。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。
第六条の「怠け者になりなさい」がちょっと変わってますよね。
だらだら過ごそうという意味ではなく、頑張りすぎずに時には暇をつくり、怠けてゆるく生きることで余白が生まれて、また好きなことができる、といった意味だと僕は解釈しています。
水木しげるさんも、「あくせく働くことがいいことではなく、好きなことをやりなさい」と言っています。
水木しげるさん自身も、トライ族という自由な民族に出会ったことでも、自分の好きなことに没頭し、そのために生きるということの大切さを学んできました。
水木しげるから学べる教訓
水木しげるさんから学べる教訓は「暇を作って怠けよう」ということです。
好きなことは他人の目なんか気にせずにやりまくろう!
と水木しげるさんは言います。
ご自身の生涯も好きなことに没頭していました。
それで幾度となく学校も辞めたり仕事も続かなかったり。
それでも、諦めずに漫画家になりました。
漫画家のときもどうしても怪奇ものが描きたくてヒットせずとも諦めず描き続けてようやくヒットを手にしました。
諦めずに好きなことに没頭する。
暇を作り自分の好きなことをする時間を作る。
いい意味で怠けて余白を作る大切さを学びました。
先ほど、紹介した水木しげるさんの信条が書かれた本のリンクを貼っておきます(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。