ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ79人目は、鎌倉仏教のひとつで禅宗の「臨済宗」を開いた「栄西」です!
平安時代、貴族に私物化されつつある仏教(天台宗)を立て直すため立ち上がったのが栄西。
同時期にも、法然が天台宗をさらに発展させ浄土宗を開きました。
「既存の仏教をなんとかせな!」と立ち上がったのです。
栄西ってどんな人?
栄西から学べる教訓は?
これらを書いていきます。
栄西の生涯を知ると、「うまくいかないときは環境を変えることが大事」ということがわかります。
(約3分で読めます)
栄西ってどんな人?
天台宗のお寺で仏教を学ぶ
栄西は、平安時代の後半の1141年に今の岡山県に生まれました。
父親は神社の職員だったそうで、その関係から仏教に興味があったのかもしれません。
1154年の13歳の頃、天台宗のお寺で仏教を学び始めました。
中国へ渡り、禅宗と出会う
天台宗を学んでいるうちに貴族や身分の高いものが仏教を利用して金儲けしたり、私物化していることに栄西は嫌気がさします。
そして、今の日本の仏教を見限った栄西は中国(当時は宋)に向かい勉強を始めます。
30歳になる前くらいの歳でした。
約半年くらい留学していたところ、当時の宋では「禅宗」が流行っていたことがわかり、この「禅宗」に天台宗を立て直すヒントがあるだろうと考えていたのです。
弾圧され否定される禅宗
人間はいつでも新しいものを拒絶して否定する生き物なのでしょうか。。。
栄西が中国から持ち帰った臨済宗も既成の宗派の人々から弾圧されてしまいます。
しかし、1198年に『興禅護国論』という本を記し、「禅は今までの既存の宗派のやり方を否定するものではなく、仏教をまた立て直すのに必要なんだ!」と説きました。
ただ、本を通しての弁明もむなしく、それでも京都にはいづらくなったため、幕府から庇護を受けるために鎌倉に向かいます。
武士たちに禅宗が大人気!
時の権力者である北条政子や源頼家が、臨済宗を支持してくれました。
そして鎌倉の武士たちの間に広まっていったのです。
京都の貴族がダメなら鎌倉の武士たちに。
この方針転換は成功し、臨済宗は一気に広まりました。
広まった理由は法然の浄土宗と同じで、山や寺に修行に行かずにできる「簡単さ」からだと言われています。
ただ、浄土宗と大きな違いは、『自力』なところ。
「念仏を唱えれば極楽浄土にいける」という『他力本願』な浄土宗に比べ、臨済宗は自分で坐禅をして仏の境地に達することを目指す『自力』となります。
このように、臨済宗は鎌倉幕府の偉い人や武士たちを中心に広まっていきました。
そんななか、1215年には75歳で栄西は亡くなります。
うまくいかないときは環境を変えてみよう
栄西のやり方はとても上手でしたね。
本を書いて「臨済宗は天台宗を立て直そうとしてるだけなんだよ」と説いても京都の貴族たちは見向きもしませんでした。
そりゃ、自分たちが旨味を占めてるものを手放してまで新しいものを受け入れようなんて思わないですよね。
ここで注目したのが権力者に近づくという点が栄西のビジネスマンっぽいところ。
勢いに乗っていた鎌倉幕府の将軍に近づき武士に臨済宗を広めていきました。
源頼朝の息子で二代将軍の源頼家は、栄西を支援して京都に建仁寺というお寺を建てさせました。
他にも、栄西はかなり地位の高い「権僧正」という役職も貰い権力をも手に入れていきました。
武士や貴族に近づくために賄賂を渡していたということも言われていて栄西はあまり評判は良くなかったそうです、、笑
ただ、押してダメなら引いてみろ!精神で京都をサッと諦め鎌倉幕府にすがることをやった栄西はさすがです。
僕らも、仕事でもなんでも自分のパワーを発揮するために環境はとても大事。
エネルギーや情熱はあるのに、周りの環境が悪くて力を発揮できないなんてあったらとても残念。
ここはダメだ!と思ったら栄西のように割り切って環境を変えてみましょう!
栄西から学べる教訓
栄西から学べる教訓は「うまくいかないときは環境を変えよう」ということ。
先ほど書いたように自分の努力がすべて打ち消されてしまったり、せっかくの能力も発揮できないようなら、環境を変えたほうがいいです。
努力し活躍する場所は自分で選びましょう!
栄西についてもっと深く知りたいという方は以下のような本もあります。
栄西は、宋からお茶を伝えたことでも有名。そんなエピソードも書かれています(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました。
ではまた。
ざす。