ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
シリーズ56人目は四国を制覇した「長宗我部元親」です!
いやーー僕も最初は正直よく知らなかった武将ですが非常に面白いです!
織田信長に攻められそうになった瞬間、信長が自害した『本能寺の変』が起こります。
明智光秀とも仲が良かった長宗我部元親。裏で動いていた説もあり。。。
また、四国を統一した彼からは、「一芸を極める」ことの大切さなんかも学べます!
長宗我部元親って何をした人?
長宗我部元親から学べる教訓は?
これらのことをざっくりと5分でわかるように解説していきます^^♪
(約5分で読めます)
長宗我部元親ってどんな人?
長宗我部元親は、現在の高知県、土佐に生まれた戦国武将です。
彼の生涯をざっくり大枠だけ紹介していきます。
幼少期は気が弱かった
1539年に土佐国に生まれました。
幼少期は色白で、おとなしく、気弱な性格だったので「姫若子」といじられていたそうです。「女の子みたいだな!」って感じですかね。
長宗我部元親は、若い頃は戦にもでていませんでした。
初陣では人が変わり「鬼」のようになる
長宗我部元親の初陣(初めての出陣)は、戦国武将にしては遅く22歳の頃。
父親の国親に従って戦に参戦しました。
当時の土佐はまさに群雄割拠でした。
高知県である土佐を見てもらえばわかるように、非常に多くの武将がいます。
その中で長宗我部元親の初陣は、本山氏との戦いである「長浜の戦い」でした。
戦が始まる前は、幼少期のあだ名も相まって、「本当にこの人大丈夫か・・・」と思われていたようですが、槍を持つと人が変わり、武器を振り回し、あれよあれよと敵を倒していきました。
鬼のような気迫で、周りの味方は士気が高まりました。
親の国親は当初、気弱で心配していたが、この初陣をみて安心したそうです。
「長浜の戦い」では、勢力的には不利だった長宗我部氏が勝利しました。
群雄割拠な土佐を統一
そして「いざ、これから!」というときに父の国親が亡くなってしまいます。
亡くなる前には「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題も無い。」と元親を褒めたたえたそうです。
先ほど画像を載せましたが、非常に多くの武将たちが争っている土佐国。
長宗我部氏は勢力が強かったわけではないが、本山氏を打ち破り、拡大していきました。
この頃、明智光秀と関わりのあった美濃の齋藤氏から奥さんを迎えます。
これを機に明智光秀と結びつきが強くなっていきました。
土佐の中央で勢力を拡大していった長曾我部元親の敵は残るは、東の「安芸氏」、西の「一条氏」のみ。
長宗我部氏がすごいのが、兵力を集めるのに農民から募集したことです。
元々、土佐の中では兵力的には劣勢だったのですが、戦に慣れていない農民から兵力集めてここまでの大躍進です。
そして、かなりはしょりますが(笑)、安芸氏と一条氏も倒し、土佐を統一しました。
織田信長の死に関与していた?!
土佐を統一してからは、勢力を拡大していた織田信長と協力して四国の他の国に攻め込んでいきます。
伊予(愛媛)、讃岐(香川)、阿波(徳島)を攻め、領土を広げていきます。
しかし、この急速な拡大に危機感を覚えた織田信長は、長宗我部元親に対し、「俺のいうことを聞け!(家臣になれ)」と迫り、拡大した領土を手放すよう命じました。
もちろんこれを拒否。
織田信長とは敵対関係になりました。
そして織田信長は、四国に攻め入ろうとします。天下を統一するだろうと言われていた最強の織田信長ですので、長宗我部元親は大ピンチ。
しかし、いざ大阪から攻撃をしようとしたその日に「本能寺の変」が起きます。
それで九死に一生を得たのです。
明智光秀とも親交のあった長宗我部元親ですので、何か裏がありそうですよね...
四国平定から秀吉への降伏
そして難を逃れた長宗我部元親は阿波の国、伊予の国を攻め滅ぼし、47歳の時に四国を平定します。
農民から集めた兵たちからの大逆転劇。
しかし、世の中は豊臣秀吉が天下を統一する間近。
秀吉は四国を平定するため、10万の兵を送り出します。
さすがに、秀吉の軍勢にはかなわず、四国を統一した直後に明け渡すこととなります。
ただ、秀吉に従うことを条件に生まれ故郷の土佐だけは守ることができたのです。
長宗我部元親は、有名な秀吉の「小田原攻め」や「朝鮮出兵」にも出陣していました。
しかし、豊臣秀吉が亡くなった翌年に、体調を崩して長宗我部元親も亡くなってしまいました。
享年61歳でした。
一芸を極めるべし
長宗我部元親の言葉で以下の言葉があります。
一芸に熟達せよ
多芸を欲張るものは巧みならず
あれもこれもと手を伸ばすものは失敗する。
ひとつのことに集中せよ、ということですが、まさにこれって土佐を統一し、四国を平定した彼の生き方そのものだなと感じました。
土佐はいろんな武将が入り乱れていた状態でしたが、父親からは「本山だけ倒すことを考えろ」と言われており、父親が亡くなった後も、本山氏を攻め続け、親の仇を撮っています。
そして、順々に土佐の吉良氏、一条氏、安芸氏を倒していき土佐を平定しました。
一つのことに集中して一点突破したからこそ土佐ならびに四国の平定を実現したんだなと思うと、この言葉の重みを感じました。
それと同時に、あれもこれもと欲張らずにまずは自分が一番得意とするもの、やりたいことに集中して一芸を極めることが大切だと思いました。
長宗我部元親から学べる教訓
長宗我部元親から学べる教訓は「一芸を極めるべし」ということです。
これは現代にも言えることだと思います。
人はマルチタスクは出来ないともいわれますし、「一芸は道に通ずる」という言葉もあります。
一芸を極めることで、そのほかのこともできるようになるのです。
それを言葉だけではなく、人生をもって教えてくれたのが長宗我部元親だったと思いました。彼のことを調べて、深く知ることができて良かったです(^^♪
....ちなみに、長宗我部元親は「秦氏」と名乗っており、中国の移民だったのではないかと言われています。「秦」=「秦の始皇帝」の子孫ではないかということも言われているのです。
長宗我部元親、魅力的すぎませんか?!笑
もっと知りたい方は以下のような本もあるのでぜひ。
長宗我部元親の子孫である長宗我部友親さんという方の本です。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。