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日本史から学べる教訓 vol.12 北条時宗 【信念を貫くと道は拓ける】


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ども!

 

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
今回は「北条時宗」です!


北条時宗とはどんな人だったのか?!
歴史を楽しく学べて現代に活かせることを書きました(^^♪

 

 

 

 

(約5分で読めます)

 

北条時宗ってどんな人?

北条時宗

 

北条時宗は鎌倉時代の中期1251年に鎌倉で生まれた武士です。

 

鎌倉時代は武士の時代でした。

 

平安時代までは天皇が政治をするか、実権を握っていた貴族などが天皇に娘を嫁がせて自分が政治をするといったようなことをしていました。

 

鎌倉時代が始まる直前まで政権を握っていた平氏などがまさにそうです。

 

鎌倉時代はうって変わって武士が実権を握るようになってきました。

 

 

初代将軍は源頼朝でしたが、源の血統は3代目の源実朝で途絶えてしまい、その後は藤原氏や天皇が将軍となりました。

 

しかし、この頃は「執権」という役職があり、将軍の補佐役でしたが、事実上政権を握っていたのはこの執権についた武将でした。

 

代々この「執権」に就いていたのは、北条氏です。

 

北条氏のなかでも有名なのは「北条時宗」ではないでしょうか。

 

大河ドラマにもなっています!

 

 

北条時宗の父は、5代目執権の北条時頼です。

 

時宗は18歳の頃に、8代目執権に就任しました。

 

この年と同じ年にある事件が起きます。

 

この頃世界中に勢力を広げていたモンゴル帝国でフビライハンが皇帝となっており、そのモンゴル帝国の使者が日本にやってきたのです。

 

 

その使者が持ってきた文書には「日本よ、わが国の属国(家来)となりなさい。さもなくば攻めるぞ」という脅しの内容が書かれていたのです。

 

 

当時のモンゴル帝国は世界の4分の1を占めていたと言われています!!

 

 

歴史上、一番大きい帝国ではないでしょうか。

 

ドイツなどの東ヨーロッパからトルコ、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島など非常に広域な勢力だったのです。

 

 

 

この大国から「降伏しろ」と手紙が来ていたときに18歳の北条時宗が何をしたかというとガン無視でした(笑)。

 

 

それから始まるモンゴル帝国からの侵略が『元寇』なわけですが、北条時宗のときの大きな出来事と言えばこの元寇でしょう。

 

 

 

 

 

信念を貫くと道は拓ける

信念,瞑想,精神統一

 

 

北条時宗がフビライハンの文書をガン無視かましたことで、モンゴル帝国が攻めてきます。

 

これが日本史でも習う『元寇』です。

 

モンゴル帝国の勢力

(画像参照:元寇はなぜおきたか(文永の役)

 

この赤い部分が最盛期のモンゴル帝国の勢力。緑が服従している国です。

 

 

やばくないですか?

 

この国の命令を無視するとは北条時宗は肝がすわっています(笑)。

 

 

元寇は2度あり最初の戦争は1274年の「文永の役」です。

 

 

海外からの侵略は初めてだった日本にとっては、圧倒的不利でした。

 

モンゴル帝国の侵略に備えて、防護策を強固にしていましたが、

戦力も蒙古(モンゴル帝国)&高麗(朝鮮)軍で約3万。

 

その3万人が一気に九州の壱岐に攻めてきたのです。

 

壱岐を攻め滅ぼした蒙古軍は、さらに博多湾に上陸。

 

 

戦力でも圧倒的不利だったにもかかわらず、当時のモンゴル帝国は騎馬戦が主流で、弓矢や、てつはう(手りゅう弾)を使ってきました。

 

 

「てつはう」なんて見たこともない日本の武士たちはビビりまくりでしたでしょう。。

 

 

「なんか爆発するものを投げてくる....!!」

 

 

弓矢も日本は100mくらいが攻撃できる範囲だったそうですが、騎馬戦で武力に長けていた蒙古軍は200mもあったそうです。

 

 

このような状況の中、日本は多くの死者を出しボロボロになっていました。

 

 

しかし、ここで形勢逆転。

 

 

博多湾上陸の初日、昼間の戦が終わり、蒙古軍は港に着けていた船に戻って一晩過ごしました。

 

夜が明けると、なんと蒙古軍の乗っていた船が一隻もなくなっていたのです!

 

 

このとき、台風が来て、沈んでしまったと言われています。

 

いわゆる『神風』と言われている嵐ですね。

(1回目の元寇のときの神風はなかったという説もあります)

 

こうして、運にも恵まれ、1回目の蒙古軍の侵略を防ぎました。

 

 

ただ蒙古軍が黙っているわけがない。

 

 

文永の役の7年後の1281年には『弘安の役』が起こり、再度攻めてきます。

 

 

このときには前回3万人だった勢力は14万人になったと言われています(!)

(勢力数には諸説あります)

 

 

もう一度攻めてくるだろうと思っていた日本も北条時宗の号令で守備強化をしてはいました。

 

でも、14万人が九州に攻めてくるとか絶対無理・・・

 

 

このときもモンゴル帝国は攻めてくる前には使者を遣わせて、「降伏しろ」と日本を脅しますが、北条時宗はまたまたガン無視。

 

しかも、無視するだけではなく、使者を斬り捨てたと言います。

 

 

当時、中国の南宋も滅ぼしたモンゴル帝国。

ユーラシア大陸を制覇していた国に対して北条時宗のこの毅然とした態度はすごいですね。

 

 

1回目の戦争で引くに引けなくなったのかもしれませんが、それでも「日本は屈さない」という信念を貫く姿勢には学ぶものがあるのではないでしょうか。

 

 

ただそれにも根拠はあり、博多湾の防塁は蒙古軍を苦しめるくらい強固なものだったそうです。

 

また新たに設けられた『異国警固番役』という役職の御家人たちが活躍してなんとか踏ん張っていました。

 

 

しかも、今回攻めてきた軍隊も、降伏させた宋(中国)や高麗(朝鮮半島)の勢力がメインだったので、すでに疲弊していた兵隊が多かったり、軍のまとまりがなかったりしたのも蒙古軍が苦戦した要因だったのではないでしょうか。

 

現に、文永の役では二手に分かれた蒙古軍の意志疎通はうまくできていなかったと言われています。

 

 

さらに蒙古軍には追い打ちをかけるように、この「文永の役」でも神風と言われる嵐が来て、ついに蒙古軍は撤退します。

 

 

こうして2度にわたる『元寇』を防いだ北条時宗は後世も英雄とされてきました。

 

一方では、多くの犠牲も伴い、外国の国を追い返しただけなので、戦によって得られたものもなく、戦った武士たちの報酬も充分に与えられられなかったので、「そこまでする必要あったのかい時宗さんよ」という意見もあります。

 

 

でも、あのとき降伏していたら今の日本はなかったかもしれません。

 

 

北条時宗の「日本を守りたい」という強い信念を貫いたことで、導いた勝利ではないでしょうか。

 

神風とか運もありますが、当時、北条時宗は気象も視野にいれていたんではないかと僕は勝手に妄想しています。笑

 

 

というのも、5月くらいに攻めてきた蒙古軍をなんとか耐え凌ぎ、2、3カ月経っていました。

 

7月末から8月くらいに大きな台風がきて蒙古軍は壊滅するんですが、今でも夏の九州って台風多いですよね。

 

狙った通りに台風が来ることなんて無理な話ですが、それでも台風には慣れた自分たちに有利に進めようとなんとか夏まで踏ん張ったのではないでしょうか。

 

これはあくまで僕の妄想です(笑)

 

まったく勝ち目のなかった戦いではないのかなと思いました。

 

 

どうしたら勝てるか?ということを常に考え、敵には屈さないという信念を貫いたからこそ、得た勝利だったのです。

 

 

 

北条時宗から学べる教訓

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北条時宗から学べる教訓は「信念を貫くと道は拓ける」ということです。

 

 

自分の信念はどんな圧力があっても曲げないこと。

 

 

信念を曲げてしまうと、自分の本当のやりたいことから遠ざかります。

 

 

鎌倉時代は生死にかかわることなので、信念を曲げてでも命は大切にしたほうがいいとは思いますが(笑)、それでも、勝利を勝ち取った北条時宗の信念を貫く姿勢からは、「最終的に自分の思う通りの結果をたぐり寄せられる」という勇気を貰えます。

 

 

 

現代社会でも、組織に属していると、自分の信念に反することを強制されることもあるかと思います。

 

そのときには、北条時宗の姿勢を思い出し、信念を貫くことを意識しましょう。

 

僕も「自分の信念とは何なのか?」ということを考えて、軸のブレない自分を作っていこうと思いました!

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

ではまた。

ざす。