ども!
ライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ105人目は、太平洋戦争で海軍のリーダーとして日本を指揮した「山本五十六」です!
「やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」という名言は有名ですね。
彼は部下からの信頼も非常に厚く、そして、戦争をなんとしても避けようともしていました。
山本五十六とはどんな人なのか?なぜ、戦争を避けようとしていたのに大将という戦争を指揮する立場になったのか?
山本五十六の生涯を見ていきましょう。
本記事を読み、彼の生涯を知ると「避けられる争いは避けるべき」ということが学べます。
(約5分で読めます)
山本五十六ってどんな人?
幼少期の経験から軍人を目指す
山本五十六は、1884年明治時代に新潟県の長岡市に生まれます。
高野家に生まれ名前は「高野五十六」でしたが、のちに山本家に養子に出されたので苗字が変わります。
名前の由来は父親が56歳の頃に生まれたからだそうです。単純ですね。笑
名前の由来を聞かれると怒ったそうです。ちょっと気持ちはわかるかも。。
負けず嫌いな性格だったようで友達に「いくら五十六でも鉛筆は食えないだろ」と言われ悔しくて鉛筆にかじりついたというエピソードもあります。笑
中学生の時に、のちに養子に行く先の山本家の10歳年上のお兄さんが病死。
「五十六が代わりに軍人になってくれたらいいのに」という言葉を言われました。
負けず嫌いな五十六は、「じゃあ俺が代わりに軍人になって強くなってやる」と軍人を目指すことにします。
左手を失いかける大怪我を負う
1904年には海軍兵学校を192名中11位で卒業。非常に優秀だったようです。
しかし、その後の戦争に参加した際に、砲撃を受け左手の人差し指と中指を欠損。
欠損した指から細菌が入り、左手を切断しないと死んでしまう可能性があると医者から言われるも、「腕をなくしたら軍人でいられなくなる!切断はしない」と手術を断固拒否。
その後、奇跡的に回復して再度戦場へ行くことができるようになりました。
アメリカ留学で偵察
37歳の時の1919年、2年間だけアメリカのハーバード大学に留学しています。エリートですね!
ゆくゆくは直接対決するであろう仮想敵のアメリカの視察の意味合いも強かったそうで、油田や飛行機産業など、どの程度発展しているのか目の当たりにします。
のちにもう1度アメリカに渡り、2回留学します。もしかしたらこのときすでに「アメリカと直接戦ったら勝てない」と感じていたかもしれません。五十六は「英米とは戦うべきではない」とずっと主張し続けてきました。
アメリカへのこの留学・偵察をキッカケに航空機の活用に精を出していきます。
日本政府に振り回される
1930年にはロンドン軍縮会議というものが行われました。
「軍縮」なので「膨張しすぎた軍事費をお互い抑えるためにそれぞれの国の規模にあった割合を決める」ということが目的で、イギリスとアメリカと日本の補助艦の保有率を決めるものでした。
しかしその割合は10:10:6.975という海軍としては納得できない不利な比率で決定。
これでオーケーしてしまった政府に対してだんだんと国内の軍人の不満が高まってきます。
これには海軍に属していた山本五十六もショックだったようです。
しかし、その翌年には満州事変を起こし中国の満州を日本は乗っ取ろうとします。ロンドン軍縮会議も破棄することを宣言し、日本は暴走してしまうのです。
山本五十六は、今の日本だとアメリカには勝てないと痛感していたのでアメリカを刺激してしまうようなことは避けるべきと思っていましたが政府のこうした無茶に翻弄されてしまいます。
そして海軍大将として前線で戦わないといけない立場でもあったので非常に苦しんだことでしょう。
アメリカとの対戦と凄惨な最期
かねてから、山本五十六はアメリカとの戦争は避けるべきと主張し続けてきましたが、台頭してきたヒトラー率いるドイツと日本は手を組むことにし、日独伊三国同盟を締結。
これを機に、もうアメリカと闘うしか他はないと五十六も決意。
当時の内閣総理大臣には、「短期決戦で進めたい。長期になれば正直勝てる保証はない」と言ったそうです。
それがハワイの真珠湾攻撃の奇襲に繋がります。
真珠湾攻撃は、アメリカ側の艦隊を多く沈めることに成功しましたが、その後のミッドウェー海戦は大敗。作戦の暗号が筒抜けだったと言われています。
そして、山本五十六はブーゲンビル島というところへ奇襲する際に戦闘機に乗ったままアメリカからの砲撃を受け、戦死します。
この奇襲も筒抜けだったそうです。
やはりアメリカには勝てず、その後、日本は敗戦してしまいます。
山本五十六は望んでいなかった戦争を先頭で指揮しないと行けず、非常にもどかしかったでしょう。
避けられる争いは避けるべき
山本五十六からは「避けられる争いは避けるべき」ということを教えてもらいました。
山本五十六は、アメリカとは戦うべきではないと主張していたのは、アメリカ留学と偵察で敵の巨大さを思い知っからです。
精神論で「死ぬ気で戦えば勝てる!」なんてことは絶対言いませんでした。避けられる戦いは避けるべきなのです。
『孫氏の兵法』で孫氏も「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(戦わずに敵を屈服させるのが最善である)と言っています。
また、「兵は詭道(きどう)なり」(戦いとは、敵を欺く行為である)とも言っています。これは真珠湾攻撃が当てはまりますね。
孫氏の兵法を山本五十六は読んでいたかは知りませんが、自然と体現しようとしていたのです。
むやみやたらに血を流す必要はありません。戦わなくていい争いは避けるべき。
その代わりに自分の体力を温存したり、自分を磨くことにエネルギーと時間を注ぐべきです。
国の言うことは守らなければならず結局五十六はアメリカと戦う道を選びますが、彼の想いからは学べる要素がたくさんあります。
山本五十六から学べる教訓
山本五十六から学べる教訓は「避けられる争いは避けるべき」ことです。
これは戦争だけではなく普段のビジネス面でも言えること。
争いに勝てば自分が有利になるかもしれません。でも失うモノも大きいハズ。何より強敵と戦うには膨大なエネルギーと時間がかかります。
果たしてそれを失ってでも得るべき勝利でしょうか。戦わずしてデメリットが無ければ争いは避けてしまうのが理想だということを頭に入れておきたいですね。
山本五十六のことをもっとよく知りたいという方は以下の本もオススメ。山本五十六と東郷平八郎はよく比較されますが、その2人が合わせて学べる内容です。
東郷平八郎のことを知りたい方は以下の記事で触れていますのでぜひ(^^♪
東郷平八郎ってどんな人?彼から学べる教訓【人望ある人は喋り過ぎない】 - ド底辺サラリーマンの夢の叶え方 (kkenichi.com)
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。