ども!
ライフコーチのけんいちです!
『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。
このブログではライフコーチの観点から心が楽になる考え方をシェアしたり、オススメの本や映画の紹介をしたりしています。
このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!
僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ106人目は、戦国時代の猛将で黒田官兵衛や豊臣秀吉のために生き抜いた「後藤又兵衛」です!
教科書にも載っておらずあまり知られていない人物ですが、歌舞伎や浄瑠璃では英雄として描かれていたり、大河ドラマの登場人物としても出てきます。
豊臣家に貢献し、最後は徳川家との闘いである大坂の陣で散った猛将です。
彼はかなり不遇な対応をされ、苦難を乗り越えていた人物。
本記事を読み、彼の生涯を知ると「どんなに辛くても次がある」という考え方と明言が学べます。
(約5分で読めます)
後藤又兵衛ってどんな人?
黒田官兵衛に育てられる
後藤又兵衛は、戦国時代の武将で、1560年播磨国姫路に生まれました。
豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の主君である小寺政職という人物に仕えます。
幼い頃に父を亡くした又兵衛は黒田官兵衛を父親同然と思い、そして官兵衛も息子同様に教育をしていたのでした。
(官兵衛とか又兵衛とかややこしいですね笑)
黒田家を追放される
あるとき、織田信長を裏切った荒木村重という人物に、黒田官兵衛が拉致られてしまいます。
そのとき、黒田官兵衛を助けるため、黒田家一同とその家臣たちは署名を集めたのですが、そのときに又兵衛は伯父の意向で署名に参加しませんでした。
これが引き金となり黒田家を追い出されます。
優秀な武将だったため復帰
追い出された又兵衛ですが、とても勇猛な武将だったので、黒田官兵衛の後押しもあり、また武将として黒田家に復帰することになったのです。
復帰後も活躍しますが、黒田官兵衛の息子の長政はあまり良く思っていませんでした。
自分の父が拉致られたときに、その息子の長政自身も身の危険を感じていたので、そのときに裏切った又兵衛のことはなかなか許せなかったのです。
この確執がのちに溝を深くしていきます。
不遇な扱いを受ける
豊臣秀吉の家臣として、九州征伐、朝鮮出兵でも大活躍。
しかし、黒田官兵衛の死後、息子の長政は待ってましたと言わんばかりに後藤又兵衛を追放。
そして「奉公構(ほうこうかまい)」という処罰まで与えます。
「奉公構」とは、「追放した後藤又兵衛を部下として迎えた家とは我々は仲良くできません」ということで、又兵衛が活躍する場所を徹底的に無くすことも同然でした。
大坂の陣で散る
又兵衛は行く先がなくなり転々としますが、やっと活躍する場ができます。
徳川家と豊臣家の戦いである「大坂の陣」です。
この戦いでは豊臣家につき、奮闘します。
勢力が拡大していた徳川家の軍とはかなりの兵力の差があり、2800人の兵で2万の敵に立ち向かったのです。
奮闘するも、やはりこの差は埋められず、大坂の陣で亡くなります。
どんなに辛くても次がある
後藤又兵衛の名言で「次勝てばそれでよし」という言葉があります。
黒田官兵衛の息子の長政と又兵衛が一緒に戦に出た時に負けたときがあったそうです。
長政は負けたことに対する反省の念を表す為、頭を丸坊主にしたそうですが、又兵衛は何もしませんでした。
「一回負けたからと言って頭を丸めていたら、髪の毛がいくらあっても足りない。次勝てばそれでいい」
こう言ったそうです。
いつでもどんなに辛くても次がある。
今がダメでも次成功すればいいんだという考えの持ち主なのです。
当時は戦国時代なので命がけでしたが、今の世の中命まで取られることはありません。
どんなに辛いことがあっても命ある限り次があります。彼の言葉を胸にめげずに生き抜いていきましょう!
後藤又兵衛から学べる教訓
後藤又兵衛から学べる教訓は「どんなに辛くても次がある」ということです。
辛いことがあったり、何か失敗してしまったり、親や仲間をガッカリさせてしまったり、色んな事があると思います。
それでも、命があれば次がある。
後藤又兵衛の生き様からそれを学び、現代に生きる自分に活かしていきたいですね。
彼について特化した本も中公新書さんから出ているので気になった方はチェックです(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。