ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ82人目は、太平洋戦争時の総理大臣で「A級戦犯」とされた「東條英機」です!
戦争を指導し、多くの犠牲を出したということで戦後の東京裁判にて「死刑」宣告されました。
戦争はあってはならないもの。
しかし、東條英機って本当に悪い人だったのか?彼からも学べることがあるのではないか?と思い、調べました。
誤解されないよう言いますが、本記事は、戦争を肯定するものではありません。
受け身の情報だけで判断せずに、自分で調べた上でちゃんと自分の意見を持ちたいと思ったのでフラットな立場から彼のことについて書いていきます。
東條英機ってどんな人?
東條英機から学べる教訓は?
彼は、当初、昭和天皇の想いの通り、アメリカとの戦争は避けようとしていたことがわかっています。
本記事はこんな方にオススメ!
・責任感が強すぎて短所だと感じてる人
・組織や会社のリーダー
・東條英機について知りたい人
(約3分で読めます)
東條英機ってどんな人?
東條英機といえば、太平洋戦争のときの日本の総理大臣。
敗戦後は、裁判にて「多くの犠牲者を出した戦争を主導した」という罪で死刑を宣告、執行されて亡くなりました。
果たして本当に悪い人だったのか?
彼の生涯や性格、想いについて触れていきます。
父親の教えから陸軍を目指す
1884年に東京都で東條英機は生まれました。
東條家の三男でしたが、長男と次男が早くに亡くなってしまったため、長男として育てられました。
東條英機の父親は軍人で、陸軍でしたが、大将にはなれずに中将で退役。
その無念を英機に晴らしてほしいと軍人としてのいろはを叩き込みます。
この経験から東條英機は、軍人を目指すことを決めるのです。
「規律や約束は必ず守る」
「規律を乱すものは誰でも処罰を与える」
といったような彼の厳しさもこの頃から身につけていたのでしょう。
そして、陸軍学校に進学します。
陸軍学校での経験と海外勤務
一時、陸軍大学校に不合格となるも、猛勉強をして、再受験では見事合格。
かなり優秀だったようで、卒業後は、海外での勤務なども命じられるくらいでした。
1921年の37歳の際、ドイツに赴任。
海外での勤務なども経験します。
次々に昇進、そして戦争へ
ドイツに行った2年後に帰国。
1924年には陸軍中佐、そして1928年には大佐にまで昇進。
1933年には少将にまで昇進しました。
優秀だったのに昇進に恵まれなかった父親だったからこそ、その想いを継いだ東條英機は物凄い努力をしたのです。
この頃、満州事変も起こり、日本の関東軍が中国を占拠。
東條英機は、「参謀本部」という日本の軍令を司る機関に勤めていました。
軍人から国の主要人物まで登りつめたのです。
1933年に陸軍少将になりましたが、1936年には陸軍中将に昇進。
満州事変を扇動した「関東軍」の参謀長に就任しました。
次々と国の重要ポストに就いていったのです。
陸軍としての評価はかなり高かったんですね。
満州事変が引き金となり、1937年に日中戦争が勃発。
8年続く大戦争の幕開けとなります。
そして、この日中戦争は、東條英機の運命を左右するのちの「太平洋戦争」へと繋がります。
太平洋戦争の敗戦
東條英機は、次々と役職を歴任し、日中戦争時の近衛内閣の陸軍大臣も経て、1941年には、第40代内閣総理大臣に就任しました。
政治家ではなく、軍人が総理大臣になったのです。かなり珍しいこと。
アメリカは、中国から日本が撤退してほしいと思っていました。
アメリカに真っ向から反対すると戦争では勝ち目がありません。
近衛内閣も昭和天皇も、「アメリカとは戦争ではなく和平を」と思っていました。
しかし、陸軍は戦争をすることを強く推しています。
東條英機は、軍人ではありましたが、昭和天皇への忠誠心が非常に高く、当初は戦争を避けようとしていたのです。
和平で終わらせるために、中国からの完全撤退はできないが、譲歩した案をアメリカに提案。しかし、アメリカは「完全撤退せよ」と条件を飲みません。
当初、中国の領土を失うことは、日本に攻め込まれてしまう完全に不利な条件だったためにこれに対して、戦争をする決断をしてしまったのです。
「A級戦犯」と言われると戦争を進んで実行した極悪人のイメージが付きまといますが、事実は果たしてそうでしょうか。
むしろ、戦後の裁判の判事はすべて戦勝国のアメリカ人。
東條英機が悪者にされるのは出来レースだったのです。
たしかに東條英機は、真珠湾攻撃を命令しそれがキッカケで多くの人が命を落とす太平洋戦争を始めてしまいました。
でも、アメリカも原爆を落として多くの命を奪いました。
個人的には、戦争にはどちらが正しいとかどちらかが悪いとかそんなものはないと思っています。
仕掛けられたとしてもやり返したら同じ。
やられたからやり返さないと、というのは正当防衛ではないと考えます。
少し話がそれましたが、日中戦争においてのアメリカとの決裂により始まった太平洋戦争では戦局が悪くなり、ついには日本は負けてしまいます。
そして、その戦争の責任を取って、東條英機は死刑の刑を受けるのです。
責任感の長所と短所
「悪人」というイメージがついてしまった東條英機ですが、最初から戦争を仕掛けようとしていたわけではありません。
たしかに、東條英機は軍人なので、戦争反対派ではありませんでした。
しかし、昭和天皇が、アメリカとはなるべく和平で終わらせたいと望んでいたこともあり、「戦争を避ける」という考えに変わったのです。
昭和天皇への忠誠心はとても高く、昭和天皇も信頼を置いていました。
また、近衛内閣が総辞職した際も、もともと別の人が総理大臣になる見込みだったのですが、昭和天皇の側近の木戸幸一という人物が天皇に「東條英機を推薦」し、それを天皇が受け入れ総理大臣になったのです。
「軍人の東條英機を総理大臣にしたのが間違いだった」という意見も少なからず見受けられますがそれは結果論だと思います。
確かに、一見、軍人を総理大臣にすると戦争を推進しそうですね。
でも、木戸幸一の狙いは、昭和天皇への忠誠心が一番高い人物を総理大臣にすれば天皇の望みの通り、戦争を避けて問題解決してくれると思われていたからです。
さきほども書きましたが、日本からの譲歩案を拒否したアメリカに対して、「もう戦うしかない」と、東條英機は戦争に踏み切ったのです。
彼はとても責任感が高い人だと言われていました。
死刑宣告された際も、「敗戦の責任はすべて私にある」と天皇を守る発言もしていました。
また部下への面倒見の良さもあったそうです。
ただ、その責任感は弱点に回ることもあり、戦争に踏み切ってしまったのかなとも思います。アメリカから突き付けられた条件はとても日本が飲める条件ではなかったのは確かです。
そこで、責任をすべて自分で引き受けようとして国民を守るため、戦争をする決意をしてしまいました。
その際、東條英機は首相官邸で涙を流したとも言われています。
(これは悲しんでいるという説もあれば、喜びに武者震いして泣いていたという説もありハッキリしておりませんが。)
もしここで、責任を一挙に引き受けようとせず、まだ打開案がないか、他の者とも議論し、アメリカと交渉する術はなかったのか、考える余地もあったのではないかと思いました。
一刻を争う状況だったとは思いますが、彼の責任感の強さが少し緩和されれば、太平洋戦争を避ける方法も見つかったのではないでしょうか。
歴史に「たられば」はあり得ませんし、何も知らない僕の浅はかな考えというのも重々承知していますが、責任感というのは長所にも短所にもなるなという学びがありました。
東条英機から学べる教訓
東条英機から学べる教訓は「責任感は長所にも短所にもなり得る」ということ。
責任感のあることはとても良い事ですが、強すぎると「頑固」になってしまい、偏った判断しかできなくなることもあります。
東条英機の場合は、国の命運、国民の生死の関わることだったので責任感が強くなるのは当たり前かと思います。
ただ、少し柔軟に考える余地もあったのではないかとも思いました。
そこはやはり軍人気質だったのでしょうか。
ただ、東條英機のことについて調べていると、一概に悪人だとは思いませんでした。
今では戦争することは非人道的行為とされていますが、当時はそれが当たり前になっていました。
戦争は仕掛けたほうがすべて悪いとは言えないと思います。
フラットな目線で物事を見て自分の意見を持ちたいものです。
東條英機のイメージがガラッと変わったのと、責任感について学べることもありました。
彼については、以下の本がめちゃくちゃ詳しく書かれています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ではまた。
ざす。