ども!
歴史好きなライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
シリーズ63人目は三菱グループの創設者でもあり巨万の富を得た「岩崎弥太郎」です!
岩崎弥太郎は、元々一番身分の低い下級武士でした。
そこから、いかにして日本三大財閥と呼ばれるまでの会社を作る事が出来たのでしょうか。
岩崎弥太郎の生涯を紐解き、商売の基本を学びましょう!
岩崎弥太郎って何をした人?
岩崎弥太郎から学べる教訓は?
これらのことをざっくりと5分でわかるように解説していきます^^♪
(約5分で読めます)
岩崎弥太郎って何した人?
身分は低かったが文才あり
江戸末期の1834年に今の高知県にあたる土佐国に生まれました。
下級武士の生まれで、身分低い家柄でした。
しかし、非常に勉強熱心で12歳で塾に入って学び、14歳のときには当時の土佐藩主の前で「漢詩」を披露したそうです。
また、負けず嫌いな性格でもあったようです。
この勉強熱心さと負けず嫌いが商売に活かされるんですね。
人との出会い
24歳の頃、当時若者教育に力を入れていた吉田東洋という人物の「少林塾」という私塾に入学しさらに勉強します。
ここで、土佐の国でも有名な板垣退助や後藤象二郎と出逢います。
こうした人との出会いが刺激になり、後世まで関わるようになっていきます。
吉田東洋が出世すると長崎へ役人として同行したりどんどん仕事が入るようになります。
しかし、長崎では豪遊しすぎて資金を使い果たしクビになったりと豪快な人でもありました(笑)
海運事業で大成功
岩崎弥太郎は、この頃、坂本龍馬と出会います。
坂本龍馬が結成した海援隊の経理財務を担当することになります。
※海援隊とは・・・坂本龍馬が結成した商売することを目的とした団体。株式会社の前身とも。
そして明治維新の流れに乗って自分でも商売を始めます。
明治維新では藩を廃止しようという動きがあったため、今までは藩ごとに行っていたようなこともこれからは私的な団体が必要になるだろうと九十九商会(つくもしょうかい)という海運会社を設立して経営者として活動します。
それをのちに「三菱商会」へと名前を変えました。
三菱商会は政府御用達にもなり、他のライバル会社との激戦もありながら巨大な組織となって海運業を独占し大成功を収めます。
キッカケは西南戦争で、国から社船を出すように命じられてこれが後押しとなります。
いつでも戦争はビジネスに深く関わってくるんですね・・・
三菱は元々海運業でしたが、今でもわかるように、現在は金融や貿易、鉄道業など幅広く手掛けています。
こうして、岩崎弥太郎は、低い身分でいながら勉学に励み、チャンスをここぞとばかりにつかみ取り行動した結果、ビジョンを具現化したのです。
彼の言葉からは商売の基礎が学べますので紹介します。
商売の基本とは?
商売の基本とは「人と笑顔で接する」ことだと思います。
当初、武士ばかりで構成された三菱商会は、笑顔を作るのがヘタクソな人が多かったようです。
そこで、弥太郎は、店頭に「おかめのお面」を置いて、あれくらい笑顔でやれと接客の指導をしたそうです。
なかなかユニークですよね。笑
当時の日本最大手の海運業は『日本国郵便汽船会社』という会社だったのですが、顧客に対する態度がかなり横柄だったようです。
三菱商会がトップを奪取したところをみると、このやり方は間違っていなさそうですね。
もちろん、岩崎弥太郎は、コストカットを実施したり他にも並々ならぬ努力をしてきていますが、「笑顔で人と接する」という商売の基本をしっかり押さえていたのだと思います。
岩崎弥太郎から学べる教訓
岩崎弥太郎から学べる教訓は「商売の基本は笑顔で人と接する」ということです。
これは顧客だけではなく、社内や組織内でも言えることだと思います。
会社は人で成り立っています。
社内の人とも笑顔で接していればいい組織になるでしょう。
岩崎弥太郎も、非常に社員を大切にしていて、日本初のボーナスを支給したのも岩崎弥太郎だと言われています。
成功したのは時代の流れに乗ったということもありますが、人を大切にしてきた彼の姿勢なのかもしれません。
岩崎弥太郎について、もっと知りたいという方は以下の本がオススメです!
岩崎弥太郎の死後は、弟が継いでいきます。
三菱商会は、後継者も非常に有能でした。
岩崎弥太郎を中心として、三菱の経営者のことについてわかる本です。
弥太郎の子ども時代のやんちゃ話などもあり人となりもわかります。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。