ども!
ライフコーチのけんいちです!
『まだ見ぬ世界、自分に出会えるブログ』へようこそ。
このブログではライフコーチの観点から心が楽になる考え方をシェアしたり、オススメの本や映画の紹介をしたりしています。
このブログを通して知らなかったコトやモノに出会え、新たな世界が開けるかも?!
僕は歴史が好きで良く調べたり本を読んだりしています。
歴史は繰り返す。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓を週1ペースで更新して勝手にシリーズ化しています(笑)
シリーズ97人目は、三菱の大番頭と呼ばれ、キリンビールの名付け親でもある「荘田平五郎」です!
三菱グループといえば、三菱商事、三菱UFJ銀行、三菱地所、三菱電機など、いろんな業界の大手企業を傘下に抱える日本有数のトップ企業ですが、創業当初、その発展を担ったのが荘田平五郎という人物。
三菱創業者の岩崎弥太郎が惚れた男とはどんな人物だったんでしょうか。
人材を特に大切にした彼の考え方に触れてみましょう。
先に岩崎弥太郎について知りたい方はコチラの記事で!
岩崎弥太郎ってどんな人?彼から学べる教訓【商売の基本とは?】 - まだ見ぬ世界と自分に出会えるブログ (kkenichi.com)
荘田平五郎の生涯と、彼の行動から学べる教訓をまとめていきます。
本記事を読めば「人を作るのは学問だ」ということが学べます。
(約4分で読めます)
荘田平五郎ってどんな人?
若い頃から超秀才
1847年に豊後国(現在の大分県)に生まれました。
藩の学校ではとても秀才だったそうで、19歳で選抜されて江戸の学校に通うことになりました。
そして、当時慶應義塾を作った福沢諭吉に師事して、慶應義塾に入学。
さらになんと入学4ヶ月で先生になったのです。
福沢諭吉からも一目置かれていたそうですが、勉学よりもビジネスの方に進んでいきます。
三菱商会に入社
当時、岩崎弥太郎が創業したばかりの三菱商会(のちの三菱財閥)に入社。
岩崎弥太郎の右腕となり、数々の施策を実施。
会社規則を制定したり、中でも、日本で最初に複式簿記を取り入れたのは荘田平五郎と言われています。
岩崎弥太郎の野望を経理面で実直に支えていたのが「三菱の大番頭」と呼ばれた彼だったのです。
三菱は元々海運業で国の仕事に携わったことで大きくなっていきましたが、他社との合併で日本郵船社を作った時も荘田平五郎が奔走し、日本郵船社の初代理事も務めました。
日本郵船社はその後日本を代表する海運送業の会社となります。
そしてその直後くらいに三菱も資本に入っていたキリンビールが発売されます。
当時、空想上の幻獣である「麒麟」をモチーフにしたのも荘田平五郎でした。
このように「三菱が発展するところに荘田平五郎あり」と言えるくらい大きく関わって貢献した方だったのです。
生涯勉強の余生
荘田平五郎は、岩崎弥太郎、弥之助、久弥と3代に渡り、パートナーとして三菱のために活動していました。
三菱は「組織の三菱」と言われるくらい、組織作り、社員の意思統一ができている企業ですが、荘田平五郎が会社の規定を作っていたのでから貢献度合いも凄かったんでしょう。
引退後は、受刑者の社会復帰に奔走したり、聖書を勉強したりと、自身も新しいことに常にチャレンジし続けていたのです。
人を作るのは学問である
荘田平五郎からは「人を作るのは学問である」ということを教えてもらいました。
当時は学問なんて商売の役に立たないと言われていたそうですが、企業は「人」でありその基礎に教育、学問があると彼は見抜いていました。
今でこそ「組織は人でできている」と言われていますが、当時はとにかく会社を大きくすることが目的となっていた会社も多かったでしょう。
そんな中、学問の大切さをとき、規定や心得などを組織メンバーに浸透させて、組織力を養っていたのです。
それが「組織の三菱」とまで言われる所以かもしれません。
荘田平五郎は、10代の頃からめちゃくちゃ勉強をしていて秀才と言われていたのも、学問がすべてのベースになると確信していたからなんですね。
組織を作るのは人であり、その人を作るのは学問である。
こうした考えが巨大企業三菱の魂を作って行きました。
荘田平五郎から学べる教訓
荘田平五郎から学べる教訓は「人を作るのは学問である」ということです。
嫌な勉強とか将来役に立たないからやりたくないと思ってることとかでも、自分の使い方次第では役立てることができるでしょう。
むしろ自分が役立てたいかどうか。
大人になっても教養は身につけて勉強し続けていたいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。