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日本史から学べる教訓 vol.33 後藤新平【組織運営で大切なこと】


Hatena

 

ども!

ライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

歴史は繰り返すと言われます。

歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。

今回は明治から昭和初期に活躍した「大風呂敷」というあだ名もあった「後藤新平」です!

 

関東大震災の復興に努め、台湾の近代化にも尽力した彼からは「組織運営に大切なこと」を学ぶことができます(^^♪ 

 

歴史を楽しく学べて現代に活かせることを、わかりやすく簡単な表現で書きました(^^♪

 

 

 

(約5分で読めます) 

 

後藤新平とはどんな人?

後藤新平


 

後藤新平は、1857年の江戸末期に、岩手県奥州市水沢というところで生まれました。

 

後藤新平は、医者でもあり、大臣を務めた政治家でもありました。

 

彼がどんな人だったのかざっくり紹介します!

 

 

政治家を目指すも、医者になる

 

彼は若い頃から注目されており、13歳にして政治家の安場保和という人物に抜擢され、県庁で勤務します。

 

15歳では上京し、東京でも働いていました。

 

政治家を目指していましたが、江戸末期には、政治家への弾圧事件なども多かったため、医者になるように勧められ、嫌々医学校に入りました。

 

嫌々入学した割に成績は優秀。笑

そして、無事医者にもなれ、そこでもかなり優秀だったようで、病院の長にまでなりました。

 

嫌々だったのに頭いいとかずるいですね。笑

 

 

愛知県の病院に勤めている時には、演説の時に傷つけられた板垣退助を治療していたそうです!!

(「板垣死すとも自由は死せず!」という有名な言葉を残した事件です)

 

 

政治家としての力を発揮!台湾統治

 

そして、やっと自分の望み通り政治家になること日がやってくるのです。

 

1894年の日清戦争で日本が清に勝利したあと、台湾が日本の領土となりました。

 

台湾を統治するため「台湾総督府」という部署が置かれることになったのですが、そこの補佐として後藤新平は抜擢されたのです。

 

当時の台湾は、軍事による治安維持も全くなっておらず犯罪は横行し、麻薬である「アヘン」常習者は数万人に登る状態。

インフラも整っていない、ぼろぼろな状況でした。

 

「台湾はまさに病人だ。健康体にしなくては...」

 

と言い、医者らしい観点から台湾の復興に貢献していきます。

後藤新平は国家を「生命体」と捉えてたのです。「生物学の原則でやる」という後藤新平の考え方も有名です。

 

 

 

ここで後藤新平から学びたいのが、「現地の慣習に合わせた改革を行ったということ」です。

 

日本で敷かれている制度を台湾に持ち込むことは一切しませんでした。

台湾を徹底的に調査し、現地に見合った改革をほどこし、見事成功させます。

 

「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」

 

後藤新平は比喩でこう言ったそうです。

 

「その国や地域には、それぞれ根ざしてきた慣習がある。それを簡単に変えることはできない。」ということですね。

 

この考え方がうまくいきました。

台湾では今でも後藤新平が「近代化の父」として呼ばれているのです。

統治というと、植民地的なイメージがありますが、近代化をさせた後藤新平は感謝される存在でありました。

 

現在、台湾が親日なのも、後藤新平のおかげかもしれませんね。

 

 

関東大震災の復興

 

その後、東京市長にもなった後藤新平は、予算を大幅にオーバーする都市計画を立てたため「大風呂敷」というあだ名をつけられたそうです。

これは皮肉ですね。。

このときの都市計画はすべて達成することはできなかったそうです。

 

 

そんななか、1923年に「関東大震災」が起きます。

 

復興が困難といわれるなか、彼はこう言ったそうです。

 

「遷都はしない。復興費用は30億円。欧米でも最新の都市計画を採用する。地主に対しては断固たる態度で臨む」

 

当時の30億っていくらになるんでしょうか。。

国家予算の1.5倍だったそうです。

世界最大規模の復興計画と言われています。

 

 

後藤新平の事業改革の根本は、「人」です。

 

横浜の山下公園や、日比谷にある日比谷公会堂も後藤新平の復興事業の一環で作られました。「人」が住み良い街にする復興計画だったんですね。

 

後藤新平は、昭和4年、岡山へ演説に向かう途中に脳溢血で倒れ、逝去しました。

享年73歳でした。

 

後藤新平がいなければ、関東の発展は遅れていたでしょう。

 

 

 

 

 

組織運営で大切なこと

組織


 

僕は後藤新平の事業計画を聞いて、現代の組織運営においても、とても大切なことを心掛けているなぁと感じました。

 

それは「現地の慣習に合わせること」です。

 

台湾を統治した時、上から全て押さえつけるような政策ではなく、徹底的に現地調査し、台湾の慣習にあったやり方、そしてアヘン常習者を減らす活動などその国の「ガン」になる部分を改善するように努めました。

 

国や地域に限らず、マネージャーや経営者として別の会社に異動したり、別の組織に移った人などは、このことを心がけるのが大切なのではないでしょうか。

 

戦後最大の破綻と言われたJALの復興を成し遂げた稲盛和夫氏もまずは従業員ひとりひとりに声をかけることをおこなっていました。

稲盛和夫氏の「ひとりひとりに経営者意識を持ってもらう」というアメーバ経営も同じことだと思います。

 

 

まずは、その地域、その組織に根ざした慣習や風習を知ること。

そして変えてはならないものは守り、変えないといけないものは改革する。

 

 

これが組織運営で大切なことではないでしょうか。

 

 

 

 

後藤新平から学べる教訓

学び

 

後藤新平から学べる教訓は「組織運営で大切なことはその組織の慣習にあった政策をすること」です。

 

 

特に経営者となると、全く別の職場から来た人に対してはたいてい皆構えます。

うちの会社でもそうでした(笑)

 

「この人はどうせ○○からきた人だからうちのことなんてわからない」

「営業だった人が我々生産現場の気持ちがわかるわけない」

とか、初めからハードルは高いものです。

 

 

後藤新平に見習って「まずはその組織を徹底的に知ること」「そして守るべきものは大切にし、変えないといけないことは変えること」

 

松尾芭蕉の言葉に「不易流行」というのがあります。

これも、「守るべきものは守り、変えていくことはしっかり変えていく」という意味です。

 

 

僕も組織やグループを取りまとめたりすることになったら、このことを忘れずにいたいと思いました。

 

最後に後藤新平が息を引き取る間際に言った言葉を紹介します。

 

 

金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上

 

人を大切にしてきた後藤新平らしい言葉でした。

 

後藤新平の偉業をもっと知りたい人はコチラの本もあります(^^♪

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

ではまた。

ざす。