ども!
ライフコーチ 兼 ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
36人目は江戸時代後期に徳川家に嫁ぎ、死者を出さなかった『江戸無血開城』にもかかわったといわれている「篤姫」です!
2008年には大河ドラマにもなった彼女は、一体どんな功績を残したのでしょうか。
篤姫って何をした人?
篤姫から学べる教訓は?
これらのことをざっくりと5分でわかるように解説します(^^♪
(約5分で読めます)
篤姫って何した人?
篤姫は、現在の鹿児島県である薩摩藩の出身で、13代将軍徳川家定に嫁いだ女性です。
徳川家が崩れていく幕末に、徳川家を守るためにも身を削って奔走した人物でもあります。
彼女の葬儀には1万人もの行列ができたとのこと。
民衆から慕われていた彼女の生涯とそこから学べる教訓を書いていきます!
島津斉彬に養子入り
篤姫は、1836年に当時、薩摩藩藩主の島津家の分家の家で生まれました。
17歳のときには、島津斉彬の養女となったのです。
島津家は、8代将軍の徳川吉宗のときから徳川家へ嫁いで行く女性が出始めて、徳川家との関係が深くなりました。
そんな篤姫は、島津家に養女になったことで、徳川家に嫁ぐ準備が始まっていたのですね。
幼少期はとても活発な女の子だったそうです。
徳川家定に嫁ぐ
島津斉彬は、将軍に近づくため、当時13代将軍の徳川家定に篤姫を嫁がせました。
いわゆる政略結婚です。
こうして、徳川家の一員となった篤姫は、江戸の大奥に住むようになりました。
しかし、徳川家定は病気で急逝してしまいます。わずか1年半ほどの結婚生活でした。
不幸は続き、養女として受け入れた島津斉彬も同じ年に亡くなってしまいます。
将軍の正室ではなくなった篤姫は出家し、「天璋院」と名乗るようになりました。
そんな篤姫に対して薩摩藩は「戻って来なさい」と呼び戻すも、彼女は頑なに断ります。
徳川家に一生身を捧げる決意をしていたのです。
徳川家のために奔走
江戸時代を終わらせた「江戸無血開城」にも篤姫は関わっていたと言われています。
江戸無血開城とは?
倒幕組の薩長連合軍と徳川幕府の戦いの中、薩摩藩の西郷隆盛と徳川幕府に仕えていた勝海舟のふたりの交渉によって江戸城が明け渡された出来事です。
事実上、幕府側の降伏でした。
このとき、攻めてきた連合軍に対して、篤姫は西郷隆盛宛に「江戸城への攻撃はやめてください」という手紙を書きました。
薩摩藩出身のこの篤姫からの手紙が西郷隆盛にどう響いたのか分かりませんが、江戸城は誰ひとり血を流すことなく開城(幕府の降伏)することになったのです。
争いは避けるべし
篤姫のこの行動力はさすがですね。
連合軍の勢いは強く、西からどんどん江戸まで攻めてきていました。
その勢いは止められるものではなく、もはや旧幕府側は厳しい状況に置かれていました。
このときに、真っ向から連合軍と戦うことはせずに「攻撃しないでくれ」という篤姫の行動は江戸城の人たちを想う勇断でした。
薩摩藩出身ということもあり、「私が言わなきゃ」という気持ちもあったのではないでしょうか。
当時の時代背景を考えると戦いもせずに降参することは恥ずべきことだったと思います。
しかし、争いを避けられたことによって江戸城に住んでいた人たちは傷つかずに済んだのです。
争いは争いしか生みません。
篤姫のこの行動から、「無駄な争いは避けるべきだ」ということを学びました。
篤姫から学べる教訓
篤姫から学べる教訓は「無駄な争いは避ける」ということです。
ときには人と競い合い、争うことも必要かもしれません。
でも、真っ向からぶつかり合う争いごとは、また新たな争いや恨みを生むことしか出来ません。
「周りの人たちのために本当に何が出来るのか?」
ということを真っ先に考えるべきなのです。
上記以外のことでも、明治時代に入ってから職を失った大奥の人たちのために職を探したり、各地を奔走していました。
そんな中、篤姫は47歳という若さで病気で亡くなってしまいます。
彼女が亡くなったときの所持金は現在の金額でいうと6万円程度だったそうです。
他の人の職を探したり、徳川家のために活動していた費用も全部自分で切り崩していたのです。
自分を犠牲にしてでも助けたかった人たちがいた江戸城に対する攻撃をやめさせようとしたのにも納得ですね。
何が大切なのかを見極めて、無駄な争いは避けること。
これが、篤姫から学んだ教訓でした。
彼女についてもっと深く知りたい方は以下の本がオススメです!
マンガでサクサク読めます。
とてもしたたかだった篤姫の人間性がよりわかると思います(^^♪
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。