ども!
ド底辺サラリーマンのけんいちです!
歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!
日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。今回は初の日本地図作者として有名な「伊能忠敬」です!
歩いて地図を作ったという彼からは「やりたいことに年齢なんて関係ない」ということが学べます。
伊能忠敬はどんな人だったのか?! 歴史を楽しく学べて現代に活かせることを簡潔に書きました(^^♪
(約4分で読めます)
伊能忠敬ってどんな人?
伊能忠敬は、1745年の江戸時代中期に今の千葉県で生まれました。
商人でもあり、天文学を学んでもいました。
現在の千葉県の山武群九十九里町小関という場所の名主(村の長)の家に生まれました。
良い家系だったんですね。
しかし、6歳のときに母親を亡くし、家業は母親の弟(伊能忠敬の叔父)が継ぐことになったため、婿入りをしていた父親と兄と姉は実家に戻ることになりました。
伊能忠敬本人はそのまま残ったそうです。
名主の生まれだったので、読み書きそろばんを勉強し、頭も良かったそう。
それがのちのち商人としての才能を発揮する基盤となったんでしょう。
伊能忠敬本人も17歳の時に伊能家に婿養子に入ります。
もともとは神保家という生まれだったので、「伊能」という苗字は婿養子に入ってからのものだったんですね。
伊能忠敬は、伊能家のある千葉県の佐原村というところで商人としての才能を発揮し、財を形成していきました。
29歳になるころには、生活は非常に安定していたようです。
佐原村の名主になった伊能忠敬の有名なエピソードで『天明の大飢饉で村に餓死者を出さなかった』というのがあります。
天明の大飢饉といえば、近世では最大の飢饉と言われ、餓死者が30万人から50万人にまでのぼった天災です。
浅間山の噴火や、悪天候や洪水などにより、農作物が不作になってしまったことが主な原因ですが、当時の伊能忠敬はどのようにしてこの大飢饉を乗り切ったのでしょうか。
伊能忠敬は浅間山の噴火があった直後に、米が不作になり、値上がりする事を見越して大阪の方からお米を大量に買っていたようです。
しかし、翌年からはお米は逆に値下がりし続け、伊能忠敬は大損失を受けました。
「このままお米を持っていても下がる一方だから売ったほうがいいよ!」と言う村の人の忠告も無視して米を蓄え続けました。
そうしているうちに、伊能忠敬が住んでいる佐原村も洪水でお米がまったく取れなくなってしまったようです。
全国各地で飢饉で農作物の不作が相次ぎ起こり始めましたが、伊能忠敬は佐原村の貧困層の方にお米を配分して飢えをしのぎました。
これを見越してかどうかはわかりませんが、結局大阪から大量に買い付けた米が村の飢饉を救ったのです。
近世最大の飢饉でも、佐原村の餓死者は0人でした!
すごい!
そんな名主、商人としても成功していると思われる伊能忠敬ですが、50歳になって天文学を学び始めるのです。
やりたいことに年齢なんて関係ない!
50歳になってまた新しいことを学び始めるってすごいですよね。
当時は寿命も異なりますので、江戸時代の50歳と現代の50歳は感覚的にも肉体的にも違ってくるでしょう。
しかも、当時19歳年下の人を師匠として、学び始めたそうです!
何かを始めるのに遅すぎることはない。
そして、年上とか年下とか関係なく教えを乞う。
素晴らしい姿勢だと思いました!
さらに55歳になってから、徒歩で日本地図を作る旅に出たのです。
その歳月、17年。
歩いた距離はなんと地球一周分(4万km!!)
55歳になってからのこのチャレンジ。
脱帽中の脱帽です、、、
ものすごいアナログな方法ではありますが、その正確性はとんでもないものです。
日本の医学に貢献したシーボルトも、「世界地図と交換してくれ!!」と懇願したほど。
伊能忠敬のことを調べていくうちに尊敬の念が溢れすぎておかしくなりそうでした(?)
伊能忠敬から学べる教訓
伊能忠敬から学べる教訓は「やりたいことを始めるのに年齢は関係ない」ということ。
50歳からまったく新しい勉強を始め、55歳から途方もない日本全国への旅を始める。
そして、17年もかけて、超正確な日本地図を作る。
ものすごいパワーですよね。
何か始めるのに年齢なんて関係ない。
そのことを身をもって教えてくれる人物です。
伊能忠敬大先生を見習っていつでも夢を追いかけようと思いました!
最後までお読みいただきありがとうございました!
ではまた。
ざす。