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日本史から学べる教訓 vol.13 足利尊氏 【周りから慕われる人の秘訣を学ぶ】


Hatena

ども!

 

ド底辺サラリーマンのけんいちです!

 

歴史は繰り返すと言われます。
歴史上の人物のストーリーを聞くと現代でも役に立つエッセンスがたくさん詰まっているんです!

 

日本史の偉人から学べる教訓シリーズ。
今回は「足利尊氏」です!


足利尊氏とはどんな人だったのか?!
歴史を楽しく学べて現代に活かせることを書きました(^^♪

 

 

 

(約5分で読めます)

 

 

足利尊氏とはどんな人?

 

足利尊氏,武将

 

足利尊氏は鎌倉時代の後半に生まれた武将です。

 

✅足利尊氏の頃のメインの出来事
・鎌倉幕府倒幕
・南北朝時代(後醍醐天皇との確執)
・室町幕府の開府


鎌倉時代から室町時代へ新しい時代を切り開いた立役者で、室町時代初代将軍です。
日本史の授業で一度は聞いたことありますよね!


戦前までは、足利尊氏は逆賊とされておりました。
それは後醍醐天皇というその当時の天皇に歯向かったからとされています。


これまた切ないエピソードがあるんですよね・・・(泣)

 


足利尊氏は父が亡くなった27歳の時に、足利家当主となります。
足利家は源氏の血を引いた家柄なんです。
勉強するまで知らなかった!


なので、鎌倉幕府を開いた源頼朝とは遠い遠い親戚にあたります。
※ちなみに猛将の武田信玄もそうらしい。

 


そんなことはさておき、鎌倉幕府を倒したいと思いが一致した足利尊氏と後醍醐天皇は協力して鎌倉幕府の倒幕に成功するのです。


倒幕後、後醍醐天皇は『建武の新政』という制度を引きます(1333年)。
これは、ざっくりいうと『天皇が政治を行う』というもので、後醍醐天皇にとっては悲願でした。
鎌倉時代は武士の時代で、執権の北条氏など武士が政権を握っていたので、後醍醐天皇は天皇の政治を取り戻したかったのです。


しかし、後醍醐天皇の『建武の新政』がひどいってもんじゃない!

 


わがままだったと言われる後醍醐天皇の政治は独裁政治。


部下の領土なども「どこが誰の領土かは俺が決める!」という状態。


また、権利を天皇に集中させすぎて部下の武将から不満も爆発。
そのため、制度をコロコロ変えたりとまさに悪政でした。


そんなとき、足利尊氏が「私を征夷大将軍にしてくれ!」と後醍醐天皇に言いました。
征夷大将軍とは、朝廷から命じられる、東日本討伐の為の位の高い将軍のことです。


ただ、後醍醐天皇は「あいつ、高い位を貰って勝手に幕府を開く気だな・・・」と疑い、これを認めませんでした。

 


仲間に見えたこのふたりは、鎌倉幕府を倒幕したいという想いは一緒でしたが、目的が違ったのです。


後醍醐天皇は、昔の天皇中心の政治に戻したいという気持ちがあったから。

 

足利尊氏は、鎌倉幕府の執権の北条氏に不満があったから。
※元寇で、モンゴル帝国を打ち破った北条氏でしたが、手伝ってくれた武士である「御家人」に充分な報酬を与えられませんでした。足利氏も御家人だったので北条氏の政治に嫌気がさしていたのです。


このように元々倒幕の目的も違うふたりだったので後醍醐天皇も「尊氏め、新しい幕府を開いて政権を握ろうとしているな・・・」と疑います。


しかし、征夷大将軍になりたかった本当の理由は関東から京都の後醍醐天皇を守るためだったとも言われています。


なのに、しまいには「足利尊氏を討伐せよ!!」と新田義貞という武将に尊氏を討つことを命じます。


新田義貞は、足利尊氏と同じで元々鎌倉幕府側の人間でした。
一緒に幕府を裏切り、鎌倉幕府を倒幕した仲間だったのですが、闘う羽目になったのです。


切なすぎる・・・
後醍醐天皇め!!怒


後醍醐天皇のこのような態度に足利尊氏もびっくりして、髪を切り落とし寺に入り、謝罪の意を示します。(普通謝らずにキレそうだけど・・・)

 


しかし、後醍醐天皇は変わりません。
最終的には兵力を集め決起した足利尊氏が後醍醐天皇と戦い、勝利しました。


敗北した後醍醐天皇は滋賀県の比叡山に逃げます。


この後南北朝時代という天皇が2人いる、世にも珍しい時代になっていくのです。


それには以下のような背景があります。


鎌倉時代後半には、天皇家での対立があり、派閥がふたつに分かれていたんです。
それを持明院統大覚寺統と言います。


後醍醐天皇は大覚寺統。
足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、「こっちが本物の天皇だー!」と名乗ります。


後醍醐天皇は「いや、天皇は俺だけだろー!」と主張して対立します。


そして、朝廷を南北に分かつ「南北朝時代」に突入するのです。


天皇には代々受け継がれている「三種の神器」というものがありますよね。
令和の時代になった2019年にもその継承の儀式がありました。
これは大昔から受け継がれているもので、「三種の神器」があることが天皇である証なのです。


この「三種の神器」は当時、後醍醐天皇が持っていました。

 

これを持っていない足利尊氏は、武力で脅し、「三種の神器をよこせ!」と後醍醐天皇に迫り、ついに手に入れます。


では、本当の天皇は足利尊氏率いる光明天皇なのか?!と思いきや、「渡した三種の神器はニセモノでしたー!俺が持ってるのが本物でーす!」と後醍醐天皇が発言。


もうカオスです。笑

 

こうして、どっちが本物の天皇だという争いは解決されぬままの状態が続くのです。


この南北朝の統一は尊氏の孫の足利義満が1392年に達成させます。

 

怒涛の歴史を歩んできた足利尊氏ですが、彼が後醍醐天皇に勝利した秘訣に学ぶべき教訓があるのです!

 

 

 

 

足利尊氏が周りから慕われる秘訣

 

尊敬

 

足利尊氏は周りから慕われていました。

 

それは、足利尊氏の「与えることを最優先にすること」と「誰でも許す姿勢」にあります。

 

 

足利尊氏は、戦で勝ち取った自分の褒美を周りにそっくりそのまま与えていたそうです。

 

自分のことよりも仲間のことを最優先に考えて行動していた尊氏だからこそ、周りから慕われていたのでしょう。

 

 

実際に、足利尊氏が兵力をあげ、決起した際に、多くの武士が仲間になってくれたそうです。

 

「後醍醐天皇じゃアカン」と思ってる人が多かったからかもしれませんが、足利尊氏の姿勢にもその理由があると思います。

 

 

「手柄は全部わたしのもの!」という後醍醐天皇とは真逆ですね。笑

 

 

足利尊氏には味方する人はたくさんいたため、兵力も集まり勝利することができたのです。

 

 

もうひとつの慕われる理由である「誰でも許す姿勢」ですが、足利尊氏は、後醍醐天皇にあれだけ攻撃されたにもかかわらず、和睦を求めようとしていました。

 

後醍醐天皇が崩御されたときにも非常に悲しみ、後醍醐天皇のためにお寺も建立しました。

 

このように、敵や、裏切り者に対しても寛大だった足利尊氏は人望が厚かったのです。

 

 

 

足利尊氏から学べる教訓

 

教訓,メモ

 

足利尊氏から学べる教訓は、「与えることを最優先に考え行動すること」という事と、「誰でも許せる姿勢を持つこと」です。

 

武力に対して武力で対抗してもまた争いが起きるだけ。

 

足利尊氏のこのような性格が人から慕われたんでしょう。

 

 

足利尊氏が、いざ立ち上がるときには、多くの味方が付いてくれました。

 

これは現代社会でも大切で、今いる組織から独立して新たに何かチャレンジしたいと思ったとき、周りについてくれる人はどれくらいいるでしょうか?

 

僕も改めて考えましたが、そんな人望もないですし(笑)、まだまだ自分を磨かないといけないなと感じました。

 

そのためにも、足利尊氏を見習いたいと思います。

 

・与えることを最優先に考える

・敵だとしても誰でも許せる心を持つ

 

 

これが周りから慕われるための秘訣だと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

ではまた。

ざす。